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この世界の片隅に生きる私たち

 『この世界の片隅に』というアニメ映画がある。クラウドファンディングで製作資金を調達し、当初はミニシアターで公開された映画ながらも、異例の大ヒットを記録、2年以上にわたるロングランとなった。英語版、韓国語版、フランス語版、ドイツ語版、イタリア語版、スペイン語版が刊行され、世界60か以上の国と地域で上映された。原作者のこうの史代氏は語る。     
 「戦時中の普通の生活を見て欲しいと思い、あえて穏やかな暮らしを描きました。ふつうの人たちが戦争に巻き込まれていく。二度と戻って来ないあたりまえの日々がどんなに尊いかを感じて欲しいのです。原爆や戦争に限らず、苦しみやや悲しみはたくさんあります。自然災害、病気、対人関係から生じる苦しさや悲しさから、なんでもない日常のいとおしさや大切さを実感することもできるのです。」 

 数年前、東本願寺名古屋別院にて、この作品の監督を務めた片淵須直氏の講演を聴く機会があった。片淵監督は、タイトルとなった「この世界」を、昔の時代のことと今と切り離して捉えず、「まさに今この時」と連続して繋がった世界と捉えていると語った。主人公が暮らす世界は、決して他人事ではなく、日々の暮らしと繋がった世界であり、自分事として共感することの大切さが語られた。
 同じものを見たり、聞いたりして、何かに気付くことのできる人とできない人がいる。「気付き」は、人がより良い方向に成長するのにとても大切な要素だ。「気付き」に大切なのは、センスとか知識だけでなく、問題意識をいかに持つことができるかだ。

 極端な例だが、東日本大震災に関して、「これがまだ東北で、あっちの方だったから良かった」と発言した復興大臣がいた。この大臣にとって、地震と津波による被害は他人事であり、被災した国民の気持ちに対する「気付き」「問題意識」は欠落している。
 沖縄の辺野古の問題もそうだ。基地建設反対運動をしていた人を「土人」と罵倒し、暴力をふるった警察官がいた。新聞の国際欄には、シリアやベネズエラといった国々で極度の貧困に直面し、栄養失調で明日の命をも保障されない子どもたちの写真が毎日のように掲載される。沖縄の人にとって、基地の問題は生活そのものを脅かす問題だが、「本土の人」にその痛みや苦しみがどこまで共感できるのだろうか。途上国の貧困問題は、訪れたこともない遥か遠い国の出来事かもしれないが、それを自分事としてどこまで捉えることができるだろうか。

 私たちに必要なのは、あたりまえの毎日の尊さを実感し、「この世界の片隅」で起こっていることを「我が事」と捉えられる「共感能力」だと、この映画は教えてくれている。

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