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お布施とキャッシュレス社会を考える

お布施のキャッシュレス決済に、京都仏教会が反対声明

「お布施のキャッシュレス決済に、京都仏教会が反対声明」のニュースが話題となっています。私も何人かの方から「どう思いますか?」と意見を求められたので、自分なりに考えてみました。

京都の名所・清水寺や金閣寺、 銀閣寺など、およそ1,000の寺院が加盟する京都仏教会といえば、「古都税」の際にも注目された組織です。(「古都税」については、こちら藤村健一先生の論文がよくまとまっていたので引用しておきます)

まずはメディア各社のニュースを見て見ましょう。

声明文「布施の原点に還る」

まずは声明文そのものを確認してみましょう。以下、掲載します。

声明文「布施の原点に還る」

1 「聖俗の分離」に従う
・寺院の宗教活動は世俗の事業とは本質的に異なる。
・布施は財物に託して、信者の心、魂を仏様に奉げるものであり、対価取引の営業行為とは根本的に異なる。
・キャッシュレスによる布施は対面的である宗教行為の本旨に反するものであり、不適切である。
・宗教団体・宗教法人において、法要、拝観、葬儀などの宗教行為と収益事業は明確に分離されている。

2 「信教の自由」を守る
・布施のキャッシュレス化により宗教信者の個人情報および宗教的活動が第三者に把握される危惧がある。
・信者の活動状況および個人情報を含むビッグデータから信者および寺院の信教の自由が侵されることを危惧する。
・信者および寺院の行動が外部に知られ宗教統制、宗教弾圧に利用されることを強く危惧する。
・布施のキャッシュレス化により手数料が発生し、収益事業として宗教課税をまねく恐れを憂慮する。

3 「寺院への対応」を求める
・傘下寺院に対して、寺院の宗教活動におけるキャッシュレス化を受け入れないことを求める。
・公益財団法人全日本仏教会と連携を密にし全国の宗派、寺院における対応を求めてゆく。
・日本宗教連盟、近畿宗教連盟その他全国の宗教連盟にも同様の対応を求めてゆく。

令和元年6月28日  一般財団法人京都仏教会 理事長 有馬賴底

上記、お寺や宗教に関わっていない一般の方には少しわかりにくいかと思いますので、私なりにポイントをまとめてみます。私の言葉で噛み砕いたものですので、あくまでもご参考程度に見ていただければ幸いです。

・お寺は宗教だから、世俗とは違う。法要・拝観、葬儀などは、宗教行為だから、収益事業ではなく、ビジネスの対価とは違う。お布施は宗教行為であり、対面でやるものだから、キャッシュレスは不適切。

・もし布施のキャッシュレス化が進んでしまうと、布施が一般ビジネスの料金と一緒にされて収益事業とみなされ、課税されかねない。また、信者や寺院の活動が第三者に把握されることで、信者や寺の自由が侵されたり、宗教弾圧に利用される恐れがある。

・だから、寺はキャッシュレスでの布施を受け入れない。これからも、布施は現金で受け取りたい。そして、寺が団結して布施のキャッシュレス化を阻止しようじゃないか。そのために、各種組合にも働きかけていこう。

あなたはどう読まれましたか? 特に、仏教界の外の方の目にはどのように映ったのでしょうか。僧侶の側からの今回のようなメッセージが、世の中にどのように受け止められるのか。ぜひいろんな方からのご意見を聞いてみたいところです。

布施の原点は現金にあり?

今回の声明文は「布施の原点に還る」というタイトルでした。

仏教において「原点に還る」というとき、どこを原点に定めるのか難しさがあります。原始仏教まで還ってしまうと、そもそも僧侶は戒律によって現金を持つことができません。上座部仏教では、今でも僧侶は現金に触れることが禁じられています。持ち物は、三衣一鉢のみ。托鉢で信者さんから布施していただいた食べ物で、僧侶は暮らしていました。その意味では、むしろ原始仏教はキャッシュレスでした。

もちろん、日本仏教をインドの原始仏教と同じく論じるわけにはいきません。日本仏教は戒律が根付くことなく独自の発展をしてきましたので、原点に還るにしても、別の還り方があると思います。その原点は、どこにあるのか。

今回の声明文は、タイトルと内容を照らし合わせると、「布施の原点は現金にあり」ということが訴えられていたように私は感じました。世の中のキャッシュレス化の進行そのものは、決済手段の変化ですから、お寺が止められるようなものではありません。諸行無常です。お布施のキャッシュレス化に反対するならば、なぜ現金が布施の原点と言えるのか、宗教的な理由を知りたくなりますよね。

未来の住職塾の仲間とも、この話題について少し話をしてみたところ、若手のお坊さんからも何人か「お布施は現金で受け取ることに意義がある」という意見がありましたので、紹介します。

・お布施を受け取った時に「御本尊に備える」「頭の上にいただく」という行為が宗教的に意味がある

お布施を包む行為やお賽銭を投げ入れる行為の「ありがたみ」を考えると、現金という選択肢はこれからも必要

執着しているものを物理的に「手放す」という実感を持つことは大事なのではないか

なるほど、現金の身体性が宗教的に意味を持つという議論は、一つありまそうでね。

祇園と仏教を結ぶもの

「現金の身体性」で思い出すのは、長者スダッタの金貨敷き詰めエピソードです。
今回の声明文とは直接関係ありませんが、仏教に関する現金の話として、ご紹介しました。

<長者スダッタと祇園精舎>
むかしむかし、お釈迦さま在世の時代、インドのコーサラ国にスダッタという大金持ちが住んでいました。
彼は大変心が優しく、よく貧しく孤独な人に食べ物などを施したので、給孤独と呼ばれていました。
ある時、彼は、隣国のマガダ国へ出かけ、竹林精舎でお釈迦さまのお説法を聞いて大変感激しました。そして、ぜひ自分の国にもお釈迦さまやそのお弟子さん皆に来て、法を説いて欲しいと願ったのです。
しかし、そのために必要な条件を満たす土地を探すと、ジェータ王子が所有する林苑以外には見つかりません。スダッタはジェータ王子に
「お金はいくらかかってもかまいませんから、どうかあの土地を譲って下さい」
と乞い願いました。
すると王子は冗談で、
「そんなに欲しいなら、私の土地にお前の持っている金貨を敷き詰められたら、譲ってやろう」
と言ったところで、スダッタは自分の全財産を投げ打って、土地に金貨を敷き詰めて行きました。
その様子を見たジェータ王子は、スダッタの熱意に感服し、土地を譲ってできたのが、お釈迦さまとそのお弟子さん方が過ごした祇園精舎です。

ちなみに京都の有名な「祇園」の地名は、この祇園精舎にちなんで名付けられました。祇園と仏教を結ぶもの、それが現金。関係あるようなないような話をしました。

法施・財施・無畏施と無財の七施

さて、今回の声明文の論旨は、基本的に「信教の自由」と「政教分離原則」という、憲法に保障された国民の権利に則って議論が構築されているように思います。それも大切ですが、「布施の原点に還る」ことを目指すならば、世間の法だけでなく、仏法に照らしての、財施以外の布施についてもう少し聞きたかった方もいらっしゃるのではないかと思うので、以下、私なりにご紹介します。

布施はもともとダーナであり、旦那とか、ドナーとかの語源にもなっています。檀家の「檀」も同じです。布施には大きく仏法を施す「法施」、金品を施す「財施」、そして怖れを取り除く「無畏施」の三種類があります。

僧侶が仏法を施し、それに対して信徒が金品を施してその活動を支える。それが成り立つためには、僧侶が仏法の担い手として尊敬されていることや、布施を支えることに意義を見出す仏教徒が存在することが条件となります。

個人的には、3つ目の「無畏施」に注目しています。無畏施こそ、現代の日本で最も大事にされるべき布施ではないかと。一度失敗したらとことんまで叩かれ、再チャレンジが許されない。その結果、若い人も尻込みして新たなチャレンジも生まれない。将来への不安が広がり、お年寄りも若者も身動きがとれなくなっている。貧富の格差が広がって、社会は分断されていく。こういう時代だからこそ「無畏」、つまり、なんの不安もなく、そのままの自分で安心していられて、恐れずに勇気を持って歩んでいける心を、お互いに布施し合うことが大事ではないでしょうか。法施や財施も、無畏施という土台があってこそです。

この辺り、以前ブログに「お布施2.0」という記事を書きましたので、よければご参考ください。

また、それとは別に「無財の七施」というものもあります。私たちの日々の生活において、お金や物などの財産がなくても、周りの人々に与えられるもの。それを7つの布施としてまとめたものです。

無財の七施については、天台宗のウェブ記事がわかりやすかったので、引用します。ぜひご覧ください。

1.眼施(げんせ)やさしい眼差しで人に接する
2.和顔悦色施(わげんえつじきせ)にこやかな顔で接する
3.言辞施(ごんじせ)やさしい言葉で接する
4.身施(しんせ)自分の身体でできることを奉仕する
5.心施(しんせ)他のために心をくばる
6.床座施(しょうざせ)席や場所を譲る
7.房舎施(ぼうじゃせ)自分の家を提供する

今回の声明で勝手ながら私が一番心配したのは、「”布施の原点に還る”というのなら、財施のことばかりでなく、法施のことにも触れたらどうなんだ。今のお寺は、十分な法施ができていると言えるのか? 熱心に仏法を説いているのか? お前は仏法を説くに値する僧侶なのか?」という、世間から僧侶へのブーメランが返ってくるのではないかということです。もちろん、そんなことを恐れるのは、ひとえに私が僧侶として未熟だからに他なりません。情けないことです。いつか自信を持って人前に立てる僧侶になれるよう、日々精進していきたいと思います。

ちなみに、このような文脈での「ブーメラン」という言葉遣いは、私はこれまでネトウヨの方達のローカル言語だと思っていたのですが、今回の参議院選挙の自民党の政見放送で大々的に使用されていました。私も初めて使ってみましたが、使い方は、合っていますか?

お賽銭の未来は

全日本仏教会はじめ、名指しで連携を求められた各団体は、きっと今頃どのように対応するかお悩みのところかと思います。

もし仮に、京都仏教会の「キャッシュレスでの布施は受け付けない」方針を、全ての神社仏閣が同様に採用した場合、どんな未来が待っているのか。想像してみました。

世界のキャッシュレス化の流れ自体は止められません。世の中からはどんどん現金の流通量が減っていって、人々はスマホ(やその先にあるデバイス)だけを持ち歩き、あらゆる購買行動を済ませられるようになります。現金なしですベての生活が済ませられてしまうので、現金自体を目にすることが珍しいような世界になります。

しかし、神社仏閣では現金しか受け付けていない。

そうすると、少なくとも人気のある神社仏閣には、スマホからお賽銭やお布施に必要な分だけ現金化できる「現金両替所」が門前に登場するのではないでしょうか。パチンコ屋の景品交換所のようなものでしょうか。

現金がほとんど必要のない世界がどんどん進めば、現金というのは「今どき神社やお寺でしか見かけることのない珍しいもの」になっていくのでしょうか。そうなると、現金=宗教的な場でのみ流通するもの=宗教的なもの、という認識が高まって、賽銭箱にお賽銭を投げ入れるという行為の宗教儀式的価値が、今より高まるかもしれません。

今回の京都仏教会が提示した方針が、そのような「現金の希少性が極端に高まった世界において、現金という貨幣の形態が帯び始めるかもしれない特別な宗教的価値」といった未来を見据えてのものであれば、長い目で宗教界全体として取り組んでみる価値もあるでしょう。もしそうならば、京都仏教会の未来を見通す目、恐るべしです。

この記事は、先日読んだ、小田嶋隆さんの「JASRACは何と戦っているのだろうか」という記事に触発されて書き始めたものです。「京都仏教会は何と戦っているのだろうか」についてもっと突っ込んでみたくもありますが、無料公開記事ではこの辺りが限界でしょうか。

小田嶋さんと同じく「結論は無い。各自考えてください。」でこのnoteを結びたいと思います。


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