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老いる事

アラフィフになり、自分自身の老いがヒタヒタと迫りつつあり、元気だった義母の介護問題に直面するようになって、老いる事っていうのがとても現実的な問題として迫ってくるようになった。

私が自分の老いを初めて感じたのは20歳前後のことだった。ある日突然、鏡を見たら、それまでなかった横筋が首に入っていたのだ。

慌てて母親(毒)に行ったら素気なく「老化でしょう」とだけ。何も心配しなくても輝けるお肌ピチピチの子供時代は終わり、これから自分の体は老化へと向かっていのか、とちょっと愕然とした気持ちになった。

でも、20代30代はそれほど自分自身の老いには向き合うこともなく、比較的のほほんと過ごしていたように思う。

20代後半に子供を出産して、30代までは子育てに翻弄されていたことが大きかっただろう。

10代から20代に入るときの喪失感は、私は20代から30代に入るときには感じなかった。しかし、30代から40代になったときに、とてつもなく大きな変化があったのだ。

それは、思考力の幅が極端に狭くなったということ。40歳になったかならないかくらいのとき。ある日突然、それまでの「明日は子どもと何して楽しもうか」というワクワク感が心の中から消えてしまった。

「あれ?昨日まで、思春期息子をどうやって翻弄しようかワクワク考えていたのに?」って自分でも不思議に思うくらい、心の中からワクワク感がなくなってしまった。

そして、同時に知的好奇心みたいなものも急速にしぼんでいった。昨日まで、「あんな本を読んで、あんなことを調べて、あんなことしたい」って考えていたのが、ある日突然、きれいサッパリ心の中から消えてしまった。

そして、私はかなりの本の虫だったのに、本をほとんど読めなくなった。集中力が続かなくて、細かい文字を追い続けることが難しくなってしまったのだ。

40歳を過ぎて、月経周期も不安定になってきて、そのうち更年期と思われる症状も出てきた。まだまだ頭ははっきりしているのに、もう自分が妊娠して出産する可能性は限りなく低くなってきたのだ、と感じたらとてつもなく寂しくなった。

自分が老いていくのと対照的に、息子はすくすく育って、いつの間にか高校生になり、大学生になり、今年はとうとう大学院生になって家を出ていってしまった。

寂しい気もするが、正直、子供が小さかったときのように構いながら子育てする気力も体力ももうない。

数年前には働き者で力持ちだった祖母が老衰で亡くなった。私が子どもの頃、30kgのお米の袋を軽々と軽トラックに積み上げていた、農家の祖母だった。

祖母は、春から夏にかけて、田んぼに水を張っている時期には、朝晩、村中に点在している田んぼの水の確認に1時間以上歩き回り、田んぼや畑の手入れをして、同居していた叔父夫婦は共働きだったために、家族のために家事と孫育てに勤しんでいた。

しかし、いつしか歩いて水の確認に回れなくなり、田んぼや畑に出ることも少なくなっていき、やがて認知症が始まって、田畑や家のことは同居している叔父夫婦に譲っていった。

もともと、祖母とは同居ではなく、大学進学から遠方に住んでいる私は、大学進学後は年に数回、祖母に会えるかどうかだった。それが、コロナ禍に入り行動制限で全く会うことができなくなってしまい、その間に祖母の老いは急激に進んだ。

もう危ないという連絡を受けてコロナ禍を縫って会いに行ったが、元気だった頃の面影はまったくなく、手足は枯れ枝のように痩せて細くなり、話しもできなかった。

コロナ禍で面会制限がある中、病院に無理を言って面会させてもらっていた。何度も緊急事態宣言が繰り返しだされていた時期だ。亡くなっても葬儀に参列できるかもわからない。

もう、その面会が生きている祖母に会える最期になるだろうと思っていた私は、祖母との思い出を語り、それまでの感謝を伝えた。

理解しているのかはわからなかったが、目を開いて私の話を聞いてくれていた祖母は、私が話し終わると目を閉じて眠ってしまった。

私はしばらく祖母の手を握り、頭を撫でてから、病室を後にした。その後、数ヶ月して祖母は永眠した。90代後半、100歳には届かなったが大往生だったろう。

それから数年、今度は同居している義母の介護問題が深刻化してきた。義母も若い頃はスポーツウーマンだったそうで、とても元気だった。

私が嫁に来た頃には、虚弱体質の嫁はとてもついていけないパワフルなお姑さんで、いろいろな意味で翻弄されたものだ。

でも、その超パワフルなお姑さんも、寄る年波には勝てずに、いろいろなことができなくなっていった。

80歳を過ぎた頃から、それまでガシガシかっ飛ばしていた自転車に乗れなくなっていった。自転車で頻繁に転ぶようになってしまったのだ。

それでも、しばらくのうちは、自分で認めたくなかったのだろう。自転車で出掛けないように言っても、無理して自転車で出掛けては、「今日も転んだよ」なんて言って帰ってくるようになった。

義母は自動車の免許を幸いな事に持っていなかったが、自動車を運転していたら、免許を返納させるのに家族が苦労するタイプだと思う。

そのうち、電動自転車が重くて転んでも起こせなくなった。電動自転車が無理なら、普通のママチャリで出掛けるようになったが、ママチャリでは漕ぐのがしんどいと言い、結局、自転車は無理だとわかったようだ。

その後、何度か体調を崩して入院するようになった。そして、家事をやらなくなり、近所の友だちとの行き来も少なくなり、いろいろなことができなくなっていった。

祖母や義母を見てきて、やはり年齢がいくと、どんなに若い頃に元気だった人でも、体の機能が閉じてきて、いろいろなことができなくなっていくのがよくわかる。

パソコンをシャットダウンするときに、まずは開いているソフトを一つずつ閉じて、シャットダウンボタンを押すと、プログラムが一つずつ閉じてやがて完全に電源が切れる。

人間の体にも、老いて死に向かう過程がプログラミングされているようで、80歳を過ぎると自然にそのプログラムが活発化してくように思う。

まだまだそのプログラムが発動するまでには時間に余裕があるが、すでに、子どもを出産できる年齢を過ぎて、自分の子どももほぼ育ちきって親としての役目を終えたアラフィフの私は、生物的に言ったらすでに役目を終えているとも言える。

祖母のように枯れ木のようになるまで生きたいかと言ったら、どうなのかなとも思う。でも、おそらく認知症が進んで、思考力も最期はほぼ閉じていた祖母は、死ぬ苦しみも感じずに自然と消えるように亡くなっていったのだろうと想像する。

死ぬ瞬間の苦しみを想像すると、死にたくなるほど(?)絶望的になるが、祖母のように最期は自然に溶けていくように終えることができれば、それが一番幸せなのかもしれない。

迫りくる自分自身の老いと、親の介護問題と、これからどうやって向き合っていくべきか、人生の後半戦、どうやって臨んでいけばいいのか、あれもこれも手探りなまま、それでも前に進んでいくしかないのだろうと思う。

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