十日町紬の魅力を語る
十日町織物の特色
十日町織物は、関西にお住まいの方にはなじみの浅いものかもしれません。 京都は古くから染め・織の技術をどちらも持つ産地として有名でした。 このどちらの技術も持つ、対等の地位を占める産地が北関東の桐生・足利です。 十日町もこの流れをくむ、染め・織の産地として有名でした。
十日町市の産業発展の理由は、養蚕が周辺で行われていたことや、麻の産地でもあること、そして日本海に近く、 ほどよい湿度が織物生産に向いていたことです。 新潟というと多くの方はコメの生産地であると思われるようですが、十日町近くは山あいの村で、 生産性もさほど高くないことから織物産業に力を入れていたことが記録からも伺えます。
十日町の販売戦略
こうして昭和期を迎えた十日町も織物業界ですが、その販売戦略には特殊なものがありました。
古くから製造はされているとはいえ、京都ほどのブランド力はありません。 そこで取られた戦略は、
[1]首都圏をターゲットにする
[2]流行を自ら作り出す
[3]デパート等の大量販売を主に流通させる
でした。
[2]については京都のデザイン業界が数歩先を言っています。 十日町はより安い価格で、より最新のデザインを提案する方向でそれに対抗しました。 こうして「黒絵羽織」や「マジョリカお召」などの製品が作り出されたのです。いち早く大量生産の仕組みを作ったことも、成功の理由です。
十日町紬の生産と商品開発
このように、戦略的に製品を開発し、販売してきた十日町がどのように紬を作り出したかについては 十分な調査がなされていません。
マジョリカお召については、生産が昭和40年~44年頃ということが調査でわかりましたが、 これらの紬の由来については不明な点が多いのです。 十日町市ある「根啓(ねけい)織物」で伺った話では、 これらは「江戸つむぎ」という商品名で販売されていたということです。 もちろん現在は生産されていません。 年代についてはマジョリカお召や黒絵羽織より遅く、昭和50年頃ではないかと推測されます。
画像をご覧のように、これらの織物は彩度の高い色使い、現代の人々のニーズに合うどちらかといえば洋服地に寄ったデザインと、都会的な雰囲気を持っています。
こうした自由さは、京都の織物が伝統に縛られてなかなか到達できなかったものです。来るべき行動成長期を予見するような明るさが見られます。十日町紬についてはさらに調査を続けてゆく予定です。
似内惠子(一般社団法人昭和きもの愛好会理事)
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「昭和きもの愛好会」は、戦後30~50年代にかけて制作・流通した着物のデザイン性と技術力の高さに注目し、調査及び再評価することで後世への記録として継承していくことを目的に活動しています。衣生活からライフスタイル全般へアプローチし、その情報を共有して参りたいと考えています。
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