津田梅子が夢をあきらめず学校をつくった話

いまはむかし、日本の女子教育を確立した津田梅子という女性がいた。旧幕臣であり、洋学者・農学者としても知られる津田仙の次女である。幼いころから利発だった彼女は、父の勧めもあり、北海道開拓使が募集した女子留学計画に応募し、海外視察と条約改正を目的とする岩倉使節団の渡米に参加した。梅子のほかに、山川捨松など五人の女子留学生が同船していた。梅子は最年少の六歳だった。

アメリカ人の家にホームステイしながらアメリカの学校に通った梅子は、みるみるうちに英語を覚えていった。勉学も熱心に励み、寄宿先のアメリカ人をおおいに感激させた。英語とともにピアノのレッスンも受け、驚くくらいのスピードで上達した。卒業式では大統領夫人の前でピアノを演奏するほどその腕前は立派なものになっていた。

十一年の留学生活を終え、いよいよ帰国することになった。梅子らを乗せた船は、サンフランシスコの港を発ち、太平洋の北方航路を進んで一路日本を目指した。途中しけに襲われ、激しい波に船は何度も大きく揺れた。同じ船には捨松も乗っていた。捨松は梅子より四歳年長だが、梅子にとっては親友であり、同じ志を持つ同士であった。その志とは、祖国に女子教育を普及させ、女子が高等教育を受けるための学校をつくる、というものだった。

「捨松が校長先生になって学校の運営をして、わたしが教壇に立って女子たちに英語を教えるの」

まだあどけない少女が語る夢。少しだけ大人の捨松は、このときは梅子と同じ熱量の気持ちを抱きながら船に揺られていた。

しかし、ふたりを待っていたのは厳しい現実だった。同じようにアメリカで学問をした後帰国した男性らは官庁などに就職Bできたのに、梅子と捨松には職がなかった。もともと、ふたりは開拓使の募集に応じて留学したのであるが、帰国の途に着いたとき開拓使はすでに廃止されていた。政府としても、彼女たちを受け入れる環境を整えておらず、どう扱ってよいか分からず戸惑うしかなかった。

そもそも、女子留学の目的は、「優秀な人材を育てるための女性教育」だった。つまり、子どもたちを将来優秀な大人に育てるには、まず母となる女性に高い教養と知識がなければならない。子を育てるための女性教育というわけである。

当時はまだ、「女性は結婚して子を産み、家庭を支えるもの」という考えが強かった。結婚しなければ女性の役割は果たせないという価値観も普通であった。アメリカ留学を終えて帰国したふたりに仕事が回ってこなかったのも、そうした鉄のような社会の掟が大きくたちはだかったせいである。

女性でも活発に働けるアメリカと、何もかも違う。その現実に梅子も捨松も失望するしかなかった。教育活動にまい進するために留学し、洗練された教育を受けたにもかかわらず、身につけた学問を生かす場がない。その一方で、周囲は結婚ばかりを迫ってくる。描かれた夢は、砂の上に描いた絵のように風に消えようとしていた。

二度と結婚のことは書いてこないでください。二度とです。その問題はうんざりです。聞くのもうんざりです。私は自分の学校をつくりたいのです。そして、絶対に結婚はしません。絶対にとはいいませんが、一人で生きていくのは本当にたいへんなことですから。結婚していないというだけで変わっている人間だと思われないで自分の道を歩けたらいいのに。(アメリカの知人に宛てた梅子の手紙)

一方、捨松の心は揺れ動いていた。アメリカ生活をともにした親友梅子との約束は、もちろん忘れてはいない。が、日本社会で女性が女性らしくあるには、女性としての本文を果たすには、結婚という道は避けられないのではないか。むしろ結婚し、妻となり母となってこそ、男性にはできない女性だけの務めを果たせるのではないか。そんな気持ちが芽生え始めたところで、捨松に縁談の話が持ち込まれた。相手は陸軍の重鎮、大山巌である。

大山は西郷隆盛の従兄弟にあたり、捨松の出身地・会津にとっては怨敵にあたる薩摩の人間だ。

捨松は、決断した。

十分考えたうえで私は決心したのです。そして、今私は自分のしたことが正しかったと思っています。大山氏はとても素晴らしい方で、私は自分の将来を彼に託すことにしました。(捨松の手紙より)

捨松は大山巌と結婚することになった。アメリカから帰国してちょうど一年後。彼女は梅子とたもとを分かつことになった。

大山夫人となった捨松の人生は、180度変わった。結婚した年に鹿鳴館がオープンし、舞踏会が催された。捨松はそこで華麗なドレスを身にまとい、アメリカ仕込みのダンスを披露。内外の要人をうならせた。山川捨松は大山捨松となり、夫を支えつつ、社交界の貴婦人として精力的に活動していく。

そんな捨松を、梅子は複雑な心境で見つめるしかなかった。帰国途上の船で同じ夢を誓い合った捨松はもういない。自分ひとりでも学校を建てなければならない。日本の女子たちが通える、日本の女子のための学校を。

その頃梅子は華族女学校で教鞭をとっていたが、現状には満足できなかった。女学校といっても、そこで教育を受けられるのは上流家庭の女子のみ。梅子が目指すのは、身分も生まれも関係ない、すべての女性が分け隔てなく平等に教育を受けられる機関の創設。それをかなえるには、この境遇に甘んじるわけにはいかなかったのだ。

梅子は、二度目のアメリカ留学を決断した。アメリカのブリンマー・カレッジに入学し、生物学を専攻する。さらにオズウィゴー師範学校でも学んだ。勉学熱心な彼女は、留学期間中、多くのアメリカ人から厚い信頼を寄せられ、このまま大学にとどまってほしいと懇願されるほどだった。しかし、アメリカで学問を学べば学ぶほど、彼女のなかで大きくなっていくのは、祖国への想いと、祖国で暮らす女性たちにもこのような教育を与えたいという、小さいころから変わらず持ち続けた夢だった。三年間の留学生活のなかで、梅子は日本の女子教育に一生を捧げる決意を新たにし、帰国した。

帰国してしばらくはまた華族女学校で教壇に立つ生活がはじまった。そのかたわら、学校創設のための準備にもとりかかり、女子留学のための「日本夫人米国奨学金」を設立する。帰国して六年後には、デンバーで開催された万国婦人連合会に日本代表として出席し、これからの日本の女子教育がどうあるべきか、意見を表明した。梅子の活躍は、社会に出ても不安定な地位にある女性たちにとって、おおいに励みとなった。

明治33年、梅子は十五年間務めた華族女学校の教授を辞職し、長年の夢であった私塾を開設した。日本初の女子教育機関「女子英学塾」の誕生である。

校舎は木造二階建ての借家で、集まった生徒は十人。学校創設の協力者として、開校式にはアメリカ時代の知人や留学生仲間が集まった。そのなかにいは、大山捨松の姿もあった。

女子英学塾の顧問を引き受けた捨松は、物心両面にわたって梅子を支えていく。捨松の支援を受けながら梅子は自分が生み育てた学校の発展に尽力する。女子英学塾はその後も順調に生徒数を増やし、津田塾大学と名を変え、多くの優秀な人材を輩出するほど大きな学校となった。日本の女子教育に光を当てたいというふたりの想いがようやく実を結んだのである。


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