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声が小さいと言われ

声の小ささは自信のなさの表れとも言われる。

確かにボソボソと話す人は見るからに弱々しく、自信なさげに映る。

ぼくは、小さい頃から声の小ささを指摘され、「もっと声を出しなさい」と先生から注意される子どもだった。

なぜ、声が小さい人間に育ったのだろう? その原因はまったく分からない。いつから声が小さくなったのかの記憶もない。

小学校一年生のときのこと。ぼくの声の小ささを見かねた担任の先生が、「大きな声で『おーい』と言ってみなさい」と指示を出したことがあった。

ぼくは大きく息を吸って腹に力をため、「おおおーーーい」と叫んだ。ぼくの声はたぶん、教室を突き抜けて隣のクラス、運動場にまで届いたに違いない。

「やればできるじゃない」先生はそう言って誉めてくれた。誉められるとまんざらではなくなる。子どもとはそういうものだ。

それ以降、先生はことあるごとにぼくに、「おーい」をやらせた。バカでかい声を出すだけなら簡単だ。期待に応えて叫んでやった。一仕事終えると、先生はまた誉めてくれる。ただ声を出しただけなのに、何か偉いことをしたような錯覚になった。

周りの児童は面白がっていた。「声出るじゃん」「おーいっていってよ」と面白半分で言うようになった。たぶん、内心からかっていたのだろう。

先生はそれでぼくの小さい声が改善されると本気で思ったのか、それともふざけ半分だったのか分からない。ぼくのなかでは、小さい声を改善しなければならないという思いより、ただ先生の指示に従わなければならないという動機から、言われるとおりやったまでだった。

今思えば、完全にサルの教育にしか見えない。餌を与える代わりに、何回も何回も同じことをやらせる。動物ならそれでいいかもしれないが、人間には感情がある。尊厳がある。鈍感なぼくは当時ただ先生に言われたとおりにやるのが正しいと思っていたから、愚直に従った。でもちょっとはおかしいなという思いはあった。クスクス笑っている奴もいたからだ。そりゃ、笑うだろう。おかしなことをしているのだから。

声は、小さすぎても大きすぎてもいけない。適量だろう。ちゃんとコミュニケーションするにふさわしい声量というものがある。ぼくの声に問題があるというなら、なぜその訓練をやらせてくれなかったのか。隣のクラスにも響くほどバカでかい声を出させて一体何になる。それが大人のやる教育か? けっこうなオバサン先生だったが、その年でも質の低い教育ができるものなんだ。

体罰やセクハラをする先生だけが問題じゃない気がする。

#コラム #エッセイ #ライター #思い出

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