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海路歴程 第八回<上>/花村萬月

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 太閤秀吉の時代、海商は武士や豪族が多かった。越前敦賀などは、とりわけ顕著だったようだ。
 遠い智識として、それらを漠然と知っている貞親さだちかは、ひょっとしたら船頭は、本当に甲斐武田氏の出かもしれないと思うようになっていた。ただし貞親は甲州には海がないことを知らない。
 甲斐武田氏の出かどうかはともかく、船頭にはいわく言い難い鬱屈がある。酒を浴びるように呑むことや、理不尽な暴力の背後に、抑えようのない怒りと怨みがあるような気がするのだ。
 半泣きのかしきが声をあげる。
「だからって、なにも柄杓ひしゃくの柄をぶっ刺さなくてもいいじゃねえですか」
 いま反芻すると、宿酔でまともな状態ではなかったのに見事な投擲とうてきだった。まるで達人が、手裏剣かづかを投げるがごとくだった。しかも見事に柄が額に刺さったのだから、尋常でない。
 貞親は憤懣やるかたない爨に向けて静かにうべなってやる。
「まったくだ。あれは酷え遣り口だ」
「俺はもう厭だ」
 貞親は菜箸の尖端を小刀で削りながら、醒めた声で訊く。
「この廻航が終わったら船をおりるか?」
 いや、その──と爨は口ごもる。理不尽な船頭の遣り口は耐え難い。おりてしまいたいのは山々だ。だが、くい扶持ぶちを稼ぐのは並大抵のことではない。
 爨の両親は病死した。おやつて甲陽丸こうようまるに乗れなかったら、飢え死にしていたかもしれない。
 甲陽丸に乗船して、ようやく幼いころから続いていた飢餓から抜けられたのだ。兎にも角にも食うや食わずの己の来し方に思いを致せば、発作的に辞めると騒いで、船からおろされてしまうのは致命的だ。
 爨の額の傷は膿んで腫れあがっていた。いつ取りついたのか、開いた傷口からうじが幾匹かうごめいているのが見える。
 ほれ、と貞親は富士壺の口に似た傷に削って先を尖らせた箸を突っ込んで、蛆をつまみ取ってやる。
「蝦夷地ではとんと見かけねえが、ほれ、お馴染みの黒富士壺みてえなかたちと色だぞ」
 指先の器用な貞親は、無駄話をしながら緑がかった膿の奥で蠢く黄白色の蛆を躊躇ためらわず抓みあげていく。こいつらは爨の腐肉をくらって大きくなっていくのだから、じつにたくましく凄まじいものだ。
 爨は傷をかきまわされる苦痛に、目尻に涙をにじませていたが、蛆を抓んだ貞親の箸の行方をとがめた。
あにい、わざわざ味噌ん中に、もどさんでくだせえよ!」
「あ、すまん。いかん、いかん。味噌の握り飯が胸に刻まれてたせいだ」
「蛆は、もといた場所にもどす?」
「ま、そんなとこか」
「けど、それを啖うのは哥たちだ」
 やれやれと貞親は眼差しを伏せた。こんなきつい塩気の味噌に、よくくものだとあきれつつ、眉をひそめる。
「しかし凄え臭いだな」
「味噌ですか? それとも俺の額ですか」
 本音は爨の額の膿だが、はぐらかす。
「どっちも」
「哥。なんかデコが熱くて、ふらふらする。なんか首筋まで熱い」
 あかで茶褐色に汚れた爨の首筋に、テラテラと脂汗が浮かびあがって厭な艶がある。痛ましい。哀れなりと思いつつ箸を使う。
「寝込んでる余裕はねえぞ」
 叱咤というより元気づけるつもりで言ったのだが、爨は目に涙を溜めて黙りこんでしまった。貞親は軽く中空に視線を投げ、どう執りなしてやるか思案する。
「こんど蝦夷地に廻漕したときは、松前のに連れてってやるからよ」
「がのじ?」
「眼の字の略だ。雁の字の略という奴もいるが、どーでもいいこった」
 ほぼ蛆を採り終えたようだ。貞親は箸の動きを止めた。傷を海水で洗ってやるとよさそうな気がしたが、痛え! と大騒ぎするに決まっている。こらえ性のない餓鬼の相手が面倒になってきた。鹿十しかとおすることにする。
 爨は拇指おやゆびと人差し指で挟みこんで自分で膿を絞りつつ、がのじ、がんのじ、と口中で呟きながら、余計にわからねえ、と小首をかしげる。
「松前に這入はいってた夏に、おこもが甲陽丸まで来たことがあっただろう」
 爨が目をあげる。重ったるく分厚い瞼を見ひらいた。
「あんとき、俺は弾かれた」
 憤りの声で続ける。
「あんときも、船頭がじゃました!」
 係留されている才船ざいせんに私娼が伝馬船に乗ってやってくるのだが、取り締まりを逃れるためにこも──むしろに隠れて近づいてくるので、おこもと称されている。箱館ならではの景色である。
「序列ってもんがあらあな。おめえは一番下っ端。どの船に乗ったって弾かれるさ」
 憮然としている爨に作り笑いを向ける。
「話をもどすぜ。女郎屋のことを、がのじ屋ってんだよ」
 確信が持てぬまま、付け加える。
「たぶん蝦夷地だけの呼び名だろうがな。松前の女の肌はあったけえぞ」
 爨の目の色が変わった。
「揚代だが、二百文。泊まりは四百文。おめえには、まだきつい額かもしれん」
 その気になれば四百文程度は爨にも払える額ではあるが、泊まりという言葉に爨は過剰に反応した。
「哥。女郎といっしょに泊まるのか」
「あたりめえだろ。てめえ、俺と一緒に寝るか?」
「いや、その、泊まるってえのが、なんていうんだ、信じられん」
 銭金の問題よりも女郎と女郎屋自体の敷居が高く感じられて臆していることもあって、若く経験もない爨にとっては乗り越えねばならぬ大きな壁に感じられているのだ。
「箱館には、ねえんですか」
「ねえわけじゃねえが、隙間風が吹きこむとこで、しんみりしょんぼりに銭を払う莫迦もいねえだろう」
「やっぱ、お城のある松前か」
「蝦夷地では、松前だな。もちろん、あちこちのみなとに好い女が待ってるぜ。たとえば新潟の湊だ」
「新潟湊には、がのじ屋の好いのがあるんだな!」
「ああ。西廻りでは一番、栄えてる湊だ。なぜだと思う?」
「わからねえ、わからねえよ」
「まずはおきのくち船役ふなやくが免除されてるんだ」
 沖口船役とは湊に出入りする船舶に対する課税である。長岡藩主は物のわかった男で、湊だけでなく町方関係も含めて種々の課税を免除したのである。
「おめえが船頭だったとしても、どうせ湊に立ち寄るなら、沖口船役免除んとこへ入るだろうが」
 爨が気のない声で答える。
「そりゃ、銭を取られんほうがいいけど」
「俺も詳しくは知らんが、寛永のころだったか大洪水が起きてな、阿賀野川の行方をさえぎってた砂丘が突き崩されちまったらしい。で、信濃川といっしょになって河口がやたらとでかくなって、なんと水深も増して船が座礁しづらくなった。好い湊だよ」
 爨はまともに話を聞いていない。頭の中は女郎一色なのだ。
「だからな、好い湊には、船がたくさん集まる。船がたくさん入る湊は栄える。すると人もたくさん集まるってことで、商いも盛んになる。遊里だって大繁盛さ。するってえと、好い女が集まってくるって寸法さ」
 哥──と絞りだすようなすがりつく声をあげて身を寄せてきた。冷たい手つきで押しもどし、爨を見やる。
「てめえも己の才覚で、好きな女をり取り見取りになれよ」
「俺に才覚があるように見えるか?」
 ない、とも言えずに貞親はとぼける。
「俺は駄目なんだよ。冴えねえんだよ。屑なんだよ。けどよ哥。なんか軀の奥からたぎっちゃってて、始末に負えねえんだよ」
 ここまで切実だと、心が動く。薩摩からもどって本当に銭が入ったなら、必ず連れてってやろうと決めた。
「なあ、哥。俺は新潟湊でなくたって一向にかまわねえ。松前でいいよ。松前がいい」
「がのじ屋が集まってんのは川原町だ。なかでも中川原町の女郎屋は、ぬきんでてるぜ。見世が十五ほどもあるか。侍も忍んで遊びに行く。なにせ松前のお城の隣だからな」
「お城の隣が女郎屋!」
 爨は頭の中で、どのような絵を描いているのだろう。おそらくは城と女郎屋が同じ大きさと高さでそびえたっているのだろう。ぼそりと貞親が言った。
「男はみんな、女が大好きさ」
 いよいよ普段は見られぬ真剣な眼差しの爨は、瞬きを忘れている。
「主立った見世は長崎屋。菱屋。中村屋。玉川屋。富士屋ってとこだが、俺が好きなのは長崎屋だな。もっとも抱女に関しては一期一会が一番だが」
「一期一会──」
「そう。どんな好い女でも、飽きるってえのか、なんというか、違うもんが食いたくなるって寸法だ」
「哥!」
「おっかねえな。なんだよ」
「俺は、まだ食ったことがねえんだよ。食い飽きる以前なんだよ」
 実際に女と接すれば、爨の妄想もほぐれるだろう。あるいは、より切実に、なおかつ尖ったものになっていくか。
「哥。なぜ長崎屋だ?」
「女がどうこうよりも、その前がたのしいんだよ」
 意味がわからないと爨が顔を寄せてきた。貞親はふたたび箸を使って、姿を見せた蛆を穿ほじりだしながら説く。
「長崎屋の遊女には芸達者が多い。芸者もたくさん呼ぶ。座頭も連れてくる。座頭は三絃さんげんを弾いて歌うんだが、それに合わせて遊女が太鼓を二つ打ち合わせて面白おかしく踊る。酒を呑んで浮かれ騒ぐ」
「哥」
「なんだよ」
「三絃てのは、三味線か? 俺は三味線も太鼓も踊りも、どーでもいい。俺は──」
「やりてえだけか」
「いや、まあ」
「ま、なんでもいいや。この額に富士壺をくっつけた御面相をなんとかしねえと女郎に好かれねえぞ」
 おちょくると、爨の蟀谷こめかみがぐりぐり動く。ぎしりしているのだ。
「くそぉ。船頭の野郎」
 しまった、と貞親は苦笑いする。御面相云々は余計だった。
「いいか。おめえ、絶対に船頭の前では温和おとなしくしとけ。でねえと」
「でねえと?」
「海に墜ちる」
 爨の喉仏が大きく、ぎこちなく動く。貞親は鋭い目つきで念を押す。
「いいな」
 
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 かたおもてが傍らにやってきた。
 貞親の視線を追って、進行方向を静かに見やる。貞親はあえて訊く。
「どうやら空模様も落ち着くかな」
「どうでしょう。ともえを出て、晴れ間を見てねえです」
「たぶん晴れるよ」
「哥の見切りは、すげえからな」
「どうやら晴れるって感じたとき、いつも思うんだ」
 片表は黙って波音を縫う貞親の言葉に耳を澄ます。
「未来永劫、晴れててくれねえかなって」
 貞親の言葉を待っていたかのように、雲の切れ間から黄金色の陽が一筋射し、海をきらめかせた。
 片表は感嘆の眼差しで天の光と貞親を交互に見る。
 間引かれたかのように雪がはらはら落ちてはくるが、黒灰の雲を押しのけてひるの陽射しが海面でぜはじめている。
 冷たく凍えた貞親と片表の頬が光を浴びてかすかな熱をもつ。片表が頬に触れながら囁くように言った。
「哥の言うとおり、未来永劫晴れててくれれば、船乗りの仕事は最高なんですけどね」
「好天。それに優るものはねえ」
 言いながら貞親が頷くと、片表が勢いこんだ。
「暮秋でしたがいんしゅう沖で、嵐に巻き込まれたじゃねえですか」
「ありゃあ酷え目に遭った。いわのあたりは気をつけねえとな」
 貞親が受け流すと、さらに勢いこむ。
「あんときの哥の間切りの見事さ!」
這々ほうほうの体で温泉津ゆのつに逃げこんだなあ」
「あんとき俺は死を覚悟したんです」
「息してるから、いいじゃねえか」
「哥の間切りのおかげで、息してんですよ」
「大仰な」
 貞親は照れた。間切りとは、風を帆に斜め受けして風上に進む航法だ。
 理窟からいけば、帆に風を受ければ風上から風下に押し流されてしまう。つまり前に進めない。当たり前のことだ。
 ヨットなどは縦帆なので風上に進むのも容易いが、横帆の弁才船で風上に進むには、斜め前から風を受けて様子をみつつ上手廻し、あるいは下手廻しを用いて船首を反対方向に向け、これを交互に繰り返すという難易度の高い操船が要求される。
 梶と帆を操ることによってみよしを風上に誘導し、これまでとは反対のふなばたに風を受けさせて前進させる技法を上手廻しという。
 横帆の操船においては当たり前の風下にまわしていく下手廻しに較べると、上手廻しは途轍もない熟練を要求される。
 洋上に浮かぶ帆船を俯瞰しているところを想像してほしい。貞親が操船すると、弁才船は流麗かつ精緻なジグザクを描いて逆風の中を風上に向けて走っていく。
 けれど技術の劣るおもてが操船すると、その航跡は折れたのこの歯のようなギクシャクしたものとなり、ほとんど前進していないことになる。同じところを幾日も行ったり来たりしているだけということが往々にしてある。
「甲陽丸は切り上がりがいまひとつだけど、哥はどう思う?」
「並みだよ」
「そうかなあ。哥が操るから切り上がりがいいわけで」
「褒めすぎだって」
「俺は心ひそかに哥から学んでるんです。されど──」
「されど?」
「嵐のさなかに実際に間切りの習練をするわけにもいかねえ」
「だな」
「でしょう! 俺が間切ってたら、まちがいなく沈んでらあ。あるいは、流されてた」
 気を取りなおして訊いてくる。
「隠州沖の強風の中、どうやって風を読んだんですか」
 貞親は冷気に赤く染まった片表の頬を見やり、頬笑んだ。
「ほっぺただよ。ほっぺたで風を知る」
 そこまで言って、小首をかしげる。
「必死だから、よくわからねえや」
 貞親と片表は顔を見合わせて、笑った。片表は山積みされた昆布に視線を投げる。
「俵物ならともかく、一体全体、こんなたくさんの昆布、どこに運ぶんですか」
 薩摩行きは口にするなと船頭から厳命されている。もどかしいが、いましばらくは黙っているしかない。
「──まだ明かせねえ」
「てことは、大坂や江戸ではない」
 貞親が頷く。
「わからねえ。なぜ、昆布?」
 貞親は声を潜め、呟くように言う。
「強慾といったらなんだが、強慾な船頭だ。にしんに海の水をぶっかけて量目を増やすみてえなことばかりしやがるじゃねえか」
「──俺たちの実入りにもなるんで、強く逆らえねえけど」
 松前などから出港するとき、鰊や数の子などは乾燥状態で積まれるが、積みこんだときの量目が目的地に着くと、すっかり重みを増していることが、ままあった。
 貞親がぶちあけたように、目的地の湊に入る直前に、露顕しない程度に乾物に海水をかけて、船頭以下水夫かこが、重量の価格差からくる差額を着服することが弁才船では横行していた。
 巧みに行えば多少怪しくとも、乾燥が中途半端だということでおさめられるが、なかには慾を掻いて水をかけすぎる間抜けな船もあった。これらの遣り口は当然、取り締まりの対象になっていた。
「近ごろ船中の者共が心得違いをし、荷物に水を打ち、上方に着いても水気があり、商売の差し支えになり困ることこの上なし。鰊、数の子すべて水気をしてはならぬ。心得違いの者は奉公差し止める──ってな」
 無表情に貞親が定法を囁いた。
 鰊などは水を打ってもばれにくいが、乾物でも昆布はもともと厚みがないこともあり、そうはいかない。ふやけた昆布など誰も相手にしない。
諸色しょしきしか積まねえってんだからおかしいとは思ってたんだが、行き先を知らずに箱館を出ちまった」
 片表の目の奥に困惑が拡がる。
「船頭が行き先を秘したってことですか?」
 貞親が頷く。
「龍飛を抜けたあたりで、ようやく船頭から行き先を告げられたが、もはや、もどるにもどれねえから諦めた」
 さすがに千両に負けたとは口にできない。
「船頭があえて行き先を言わなかったということは、そして哥が諦めたということは、あり得ねえほど遠くだ」
 片表の読みの鋭さに、貞親は感心した。常々目をかけてきたが、もし今回の航海で船を手に入れることができたなら、片表を自分の船の表に迎えよう。そう決めた。
 真っ直ぐ片表を見据える。
「言うなと命じられてるから、行き先は言わんが、口止めされてんのは行き先だけだ。だからおめえにだけは言っておく。この大量の昆布は、抜荷だ」
 抜荷! 片表は目を剥いた。
「哥、俺は耳鼻を削がれるのは、いやだ」
「俺だって、いやだ。けど、ちょい前までは死罪で縁坐、連坐まであった。耳と鼻なら、まあなんというか──」
 片表は泣き笑い顔だ。もちろん耳鼻だからいいというものではない。なによりも露顕すれば船に一生、乗れなくなる。船頭云々などまさに絵空事と化す。
 たとえば俵物三品、海鼠なまこほしあわびふかのひれは、長崎会所が生産者から独占して買うことが定められているので、海鼠などを買い付けて運べば抜荷となる。
「どっちみち、諸色だからなあ。そもそもが昆布しか積まねえから、おかしいとは思ってたんだけどよ、一方で昆布だってんで、俺も気を許してたんだ」
 諸色とは昆布、鶏冠とさか海苔、天草、するめなどを指す。
「まあ、どっから見ても昆布だけど、なんで昆布が抜荷?」
「昆布なんて、慾しがってる奴が買えばいいだけのことだもんな」
 片表が強く頷く。貞親が、声を潜めて続ける。
「なら、言いなおそう。俺たちは抜荷の片棒を担いでるんだ」
 いまだに禁制品でもない昆布で抜荷の意味がよくわからないが、片表は船頭が表にはだせない危ういことをしでかしていることを悟って、声を潜める。
「それで松前湊じゃなく、寂れた箱館巴に甲陽丸を着けやがったのか」
「そういうことだ。目立たねえように、目立たねえように気配りしてたって寸法さ」
「伴助の野郎、いつだって、なんか企んでやがる」
 船頭を苦々しい口調で呼び棄てた片表を、貞親は目で諫める。
「哥、俺はやっぱ耳鼻まとめて削がれるのはいやだよ」
「だからこそ、俺も気を張って操船してるんだ」
 いったん息を継ぐ。
「へま、やらかしたら、いろいろ面倒だからなあ。おめえの耳と鼻が消え失せるとこなんぞ、見たくもねえさ」
「哥の耳鼻だって消えるんだぞ」
「ちげえねえ」
 申し合わせたように右手で鼻、左手で耳朶を抓んで、二人は笑いあった。その姿はまるで鏡に映った己の姿だった。
 白い息を指先に吹きかけて、顔をあげる。海鳥が甲陽丸の上を舞っている。鰊であれば急降下して盗むところだが、昆布だ。未練がましく旋回して飛ぶ海鳥の姿を、貞親と片表は柔らかな眼差しで追う。
 雲がすっかり切れ、波高はそれなりにあるが、洋上にも甲陽丸にも貞親たちの上にも目映い黄金色が降りかかる。

次回に続く)

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