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おかえり ~虹の橋からきた犬~ 第十六話/新堂冬樹

【前回】 

「細胞診の診断結果が出ました。武蔵むさし君は、悪性リンパ腫でした。腸にできる消化管型リンパ腫で、発生頻度の低い珍しいタイプの腫瘍です」
「東京犬猫医療センター」の診療室――西沢にしざわ獣医師が、テーブルに置いた診断表を見せながら言った。
 菜々子ななこは、足元に寝そべる小武蔵に視線を移した。検査結果を聞いても、菜々子に驚きはなかった。
 浮き出した背骨と肋骨ろっこつ、艶のない被毛、力のない瞳……十日前に自宅でおうを繰り返してから、小武蔵の体調はみるみる悪化した。
 ドッグフードをまったく食べなくなり、この十日間はササミや鶏の胸肉を二、三切れ口にするだけだった。それさえも一昨日から食べなくなり、昨日、今日と点滴を打ってもらっていた。体重は十二キロから八キロまで落ち、一日の大半はうずくまっていた。
 トイレ、シャワールーム、ベッドルーム……いつもなら菜々子が移動するたびに後をついて回っていた小武蔵も、首をもたげるだけで立ち上がろうとしなかった。
 いや、正確には立ち上がる元気がないのだ。

『小武蔵も歩くのはつらいだろうから、体調が安定するまで店のほうは休んでいいよ』
 の気遣いを、菜々子は受け入れることにした。
 その気になれば瀬戸の運転する車で「セカンドライフ」に連れて行けるが、免疫力が落ちているので保護犬達との接触は避けたかった。
 だからといってずっと寝てばかりでは筋肉が落ちてしまうので、朝と夕方には散歩に連れ出した。
 ついこないだまで、三キロの距離を弾む足取りで歩いていたことが信じられないくらいに、小武蔵はゆっくりとしか歩けなくなっていた。
 巻き上がった尾は垂れ、顔を下に向けてよろけながら歩く小武蔵の姿を見ていると、菜々子の胸は張り裂けてしまいそうだった。
「あの……珍しいタイプというのは、悪いことなんですか?」
 菜々子は、恐る恐るたずねた。
「少なくとも、いいことではないですね。一般的な悪性リンパ腫はこうがん剤が効きやすい癌です。小武蔵君の消化管型悪性リンパ腫は、抗癌剤の効き目が一般的な悪性リンパ腫の五十パーセントしかありません」
「五十パーセント……。ほかにも、治療法はあるんですよね?」
 菜々子は、わらにもすがる思いで質問を重ねた。
「悪性リンパ腫は血液の癌なので外科的手術や放射線治療では完治しません。現段階では、悪性リンパ腫の治療法は抗癌剤しかありません」
「この前、手術をすると言ってませんでしたか?」
「それには、別の目的があります。小武蔵君の腫瘍が大き過ぎるので、いきなり抗癌剤を投与してしまうと腸が破裂してしまうからです。まずは腸にできた腫瘍を小さくして、それから抗癌剤投与に移ります」
「手術では、癌を全部取り除けないのですか⁉」
 菜々子の膝の上で握り締めた両手に力が入った。
「すべての腫瘍を取り除くには、リンパ節にまで浸潤しているので、腸の全摘出をしなければなりません」
 西沢獣医師が、淡々とした口調で言った。
「そんな……」
 菜々子は絶句した。
「まずは、できるだけ多くの腫瘍を取り除きます。早速ですが、いまから小武蔵君を入院させたいのですが、可能ですか?」
 西沢獣医師が訊ねてきた。
「入院ですか?」
「はい。小武蔵君の腫瘍の進行スピードは速いので、一刻も早く腫瘍を切除して抗癌剤治療を開始したいのです。そのためには、点滴と流動食で小武蔵君の体力を回復させなければなりません。いまの状態では、全身麻酔に耐えられませんからね」
 西沢獣医師が、菜々子の足元で寝そべる小武蔵に視線を移した。
「そんなに、小武蔵は悪いんですか?」
 菜々子も、小武蔵に視線を戻した。
 ちゃちゃまるのことを思い出し、悲嘆に暮れている菜々子に寄り添ってくれた小武蔵。散歩中に力強く菜々子を引っ張り、「セカンドライフ」に連れてゆき瀬戸と出会わせてくれた小武蔵。菜々子が子宮けいがんに侵されていることを教えるために、病院に連れて行ってくれた小武蔵。
 いつでも小武蔵は、菜々子を見守り、癒し、導いてくれた。 

 小武蔵、起きてよ。どうしたの? 
 いつもみたいに、あなたの笑顔を見せてよ。
 いつもみたいに、いろんな悪戯いたずらをしてよ。
 いつもみたいに……。

 前肢まえあしに顔を埋めて体を丸める小武蔵の姿が、涙でにじんだ。
「このまま、なんの治療もせず放置していると一ヶ月ももたないでしょう」
 西沢獣医師の言葉が、鋭利な刃物のように菜々子の胸に刺さった。
「一ヶ月……」
 菜々子は、放心状態で西沢獣医師の言葉を繰り返した。
「手術をして、抗癌剤治療を始めれば小武蔵は助かりますか?」
 我に返った菜々子は身を乗り出した。
「消化管型のリンパ腫は完治が難しい病ですが、まずは大きい腫瘍を取り除いてから寛解を目指しましょう」
「完治を目指すということですね?」
 菜々子は確認した。
「完治とは違います。寛解は腫瘍による症状や検査異常が消失した状態……つまり、癌細胞が肉眼で見えなくなる状態を言います」
「だから、完治ですよね?」
「いえ、完治は治療を終えても病気の症状が消失した状態です。寛解は治療が続いている中で症状が収まる穏やかな状態です。わかりやすく言えば、寛解は再発する可能性が高いということですね。手術を成功させ、その後、週一のペースで抗癌剤を投与して寛解まで持ってゆき、その後、間隔を空けて抗癌剤療法を続けながら再発を防止します」
「じゃあ、小武蔵は、ずっと抗癌剤治療を続けなければならないということですか⁉」
 菜々子の語気は、思わず強くなった。
「違います。寛解の期間が長く続けば、抗癌剤の投与を中断します。その間もエコー検査と血液検査は続けます。そのまま、一年、二年と再発しなければ完治も見えてきます。人間の場合は五年が目安ですが、犬の場合は二年が一つの目安となります」
 西沢獣医師の言葉に、菜々子の胸に希望の光が差し込んだ。
 同時に、小武蔵を苦しめる病魔が相当にごわいということを知った。
「わかりました。小武蔵を入院させます!」
 菜々子は立ち上がった。
「どうか、小武蔵を助けてください!」
 菜々子は、願いを込めて頭を下げた。

     ☆

「セカンドライフ」に到着したときは、午後七時を回っていた。
 点滴を打つ小武蔵に三十分ほどつき添い、「東京犬猫医療センター」を出たのが六時過ぎだった。
 本当はもっとつき添っていたかったが、手術を控えた小武蔵の体力を温存させるために後ろ髪を引かれる思いで病院をあとにした。
「あら、お義姉ねえさん。小武蔵君は、どうだったの?」
 ドアを開けると、カフェフロアのテーブルを拭いていたあさが駆け寄ってきた。
 保護犬達の元気なごえを聞くのが、いまはつらかった。
「今夜から入院になったわ」
「え⁉ 入院⁉ 今日は細胞診の検査結果を聞くだけじゃなかったの?」
 麻美が、驚きにを見開き訊ねてきた。
「かなり衰弱していたから、そのほうが安全かもね」
 保護犬フロアの床掃除をしていた瀬戸が、モップを手に菜々子と麻美のもとに歩み寄ってきた。
「小武蔵は、消化管型悪性リンパ腫だったわ」
 菜々子は、努めて平静を装い西沢獣医師から聞いた話を瀬戸と麻美に伝えた。
「そうか。とりあえず、座って」
 瀬戸が、菜々子をテーブルチェアに促した。
「手術を受けてから抗癌剤の治療か……小武蔵君の病気、そんなに重かったんだ」
 麻美が表情を曇らせた。
「少しは、食べてくれるといいんだけど。体調が回復しなければ、手術も受けられないんだろう?」
 瀬戸が菜々子に顔を向けた。
「うん。でも、大丈夫。小武蔵は選ばれた子よ」
「選ばれた子?」
 麻美が繰り返した。
「そう。小武蔵は茶々丸が選んだ子なの」
「なるほど! 小武蔵君は、義姉さんのために茶々丸君が送ってくれた子だよね!」
 麻美が声を弾ませた。
「そんな特別な子が、悪性リンパ腫なんかに負けるわけないね」
 瀬戸が微笑ほほえんだ。
「ううん、違うわ」
「え?」
 瀬戸と麻美が、ほとんど同時に菜々子を見た。
「小武蔵は、茶々丸が私を助けるために選んだ新しい命よ」
 何回も、何十回も……何百回も、心に思っては打ち消してきたこと。
 もう、打ち消しはしない。
「つまり、小武蔵君は茶々丸君の生まれ変わりっていうこと?」
 麻美が訊ねてきた。
 菜々子は、躊躇ためらわずにうなずいた。
「小武蔵は私を助けにきたのよ? そんな小武蔵が、病気なんかに負けるわけないでしょう?」
 菜々子は、瀬戸と麻美を交互に見ながら笑顔で言った。
 そして、自分に……。

     ☆

「血液検査の結果、小武蔵君には骨髄抑制が起こっています。免疫力がかなり低下しており、この状態では手術を行えません」
 西沢獣医師が、残念そうに言った。
「じゃあ、小武蔵はどうなるんですか⁉」
「いまは、骨髄抑制がおさまるのを待つしかありません」
「おさまらなければ……小武蔵は死を待つしかないんですか⁉」
 菜々子は、うわずる声で訊ねた。
「最善を尽くします」
 西沢獣医師は、抑揚のない口調で言った。
「最善を尽くすより、小武蔵を助けてください!」
 菜々子は、西沢獣医師の腕をつかみ、涙ながらに懇願した。
「残念ですが、骨髄抑制がおさまらなければ手術はできません」
 西沢獣医師は無表情に言い残し、席を立った。
「待ってください! 小武蔵を見捨てないでください!」
 菜々子は立ち上がろうとしたが、金縛りにあったように体が動かなかった。 

 目の前に、ケージがあった。
 手には、スマートフォンが握り締められていた。
 菜々子は視線を巡らせた。
 リビングルーム……。
 ぼんやりした頭に、記憶がよみがえった。
 万が一、夜中に動物病院からの緊急の連絡がきたときに備えて、小武蔵のケージの前で横になっているうちに、うたた寝してしまったようだ。
 菜々子は、スマートフォンを見た。
 午前九時五分。
 動物病院からの連絡はきていなかった。
 上体を起こした菜々子は、毛布をかけられていたことに初めて気づいた。
 もう一度、スマートフォンに視線を戻した。
 瀬戸からLINEのメッセージが入っていた。 

 風邪をひくから、ベッドで寝るようにね。
 じゃあ、仕事に行ってくる。
 小武蔵のこと、なにかわかったら連絡ちょうだいね。

 心が温かくなった。
 だが、小武蔵の状態が気になり微笑む気にはなれなかった。
 それにしても、嫌な夢だった。
 もしかして予知夢……小武蔵の状態がよくないのか?
 胸騒ぎに襲われた菜々子は、「東京犬猫医療センター」の電話番号を呼び出した。
 通話キーをタップしようとしたとき、着信が入った。ディスプレイに表示される名前に、菜々子の心拍数が高まった。
「もしもし、たにですけど」
『「東京犬猫医療センター」の西沢です』
「なにかありましたか⁉」
 菜々子は食い気味に訊ねた。
『小武蔵君、昨夜と今朝、少しですが流動食を食べてくれました。骨髄抑制の数値も上がってきましたので、体調が急変しないかぎり午後に手術をする予定です』
「よかった……」
 夢の件もあって嫌な予感がしていたが、逆夢になり菜々子は胸をで下ろした。
『午前中に、面会にいらっしゃいますか?』
「はいっ、行きます!」
 菜々子は弾かれたように立ち上がり、即答した。
 可能なかぎり、小武蔵につき添ってあげたかった。
 もう、茶々丸のときのような後悔はしたくなかった。
『十一時から手術前の検査に入りますので、十時くらいに大丈夫ですか?』
「大丈夫です!」
 菜々子は言いながら、クロゼットに向かった。
 十時まで一時間を切っているので、急がなければならない。
『では、お待ちしています』
 菜々子は電話を切り、スエットのセットアップからデニムとロングTシャツに着替えるとキャップをかぶった。
 髪の毛を整える時間も惜しかった。
 菜々子は財布とキーケースを手にすると、玄関へと駆けた。

     ☆

「東京犬猫医療センター」の入院フロアに続くエレベーターに乗った菜々子は、硬い表情で上昇する階数表示のランプを視線で追った。
 一秒でも早く小武蔵に会いたかったが、衰弱している姿を見るのが怖くもあった。
 三階で、階数表示のランプが止まった。
「お待ちしていました。こちらへどうぞ」
 ドアが開くと、学生のような童顔の女性看護師が笑顔で出迎え、菜々子を奥のフロアへと案内した。
 五つずつ並んだ三段のケージが、壁に埋め込まれていた。
 小武蔵は、最上段の右端のケージで蹲っていた。前肢には点滴の管が通され、首にはエリザベスカラーが巻かれていた。
「小武蔵……」
 菜々子が名前を呼ぶと、小武蔵がゆっくりと顔を上げ、菜々子を認めるとよろよろと立ち上がった。
「無理しないで……」
 菜々子はケージの柵越しに手を入れ、小武蔵の鼻を撫でた。
 小武蔵はゆらゆらと尻尾しっぽを振りながら、潤む瞳で菜々子をみつめていた。
 立っているのがやっとなのだろう、四肢がガクガクと震えていた。
「扉を開けてもらってもいいですか?」
「手術前なので、五分くらいでお願いします」
 看護師は言うと、ケージの扉を開いた。
 小武蔵がよたよたと足を踏み出し、菜々子の顔をめた。
 その間も、小武蔵の四肢は震えていた。
「きついのに……ありがとうね」
 菜々子は、小武蔵を抱き締めた。
 不意にあふれた涙が、小武蔵の被毛をらした。

 ママ、泣かないで。

 声が聞こえたような気がした。 

 僕を信じて。

 また、声がした。 

 あなたなの? あなたなのね?

 菜々子は、心で問いかけた。
 小武蔵は菜々子の胸にピタリと寄り添い、もたれかかるように身を預けた。

 約束する……今度は、あなたを一人にはしないから。

 菜々子は小武蔵……茶々丸に誓った。

     ☆

 リラクゼーションミュージックが低く流れる、待合フロアのベンチソファに座った菜々子は、手にしたスマートフォンをみつめていた。
 デジタル時計は、午後二時を回っていた。
 小武蔵の手術が始まって、一時間が過ぎた。
 菜々子のほかには、老婆がフロアの隅のテーブル席にいるだけだった。
 老婆は、椅子の背凭れに身を預けて眼を閉じていた。眠っているのかどうかはわからないが、うっすらと微笑んでいるようにも見えた。
 手術は、順調に進んでいるだろうか?
 麻酔が効き過ぎて、危険な状態になっていないだろうか?
 長時間の手術に、体力がもつだろうか?
 思わぬアクシデントが起きて……。
 菜々子は、次々と胸をよぎる不安を打ち消した。
 小武蔵は、きっと元気になる。
 もしそうでなければ、帰ってきた意味がない。
 小武蔵と出会ったことで、菜々子は救われた。
 茶々丸の最期の悪夢が、少しは和らいだ。
 でも、ふたたび小武蔵が目の前から消えたら……心の傷はさらに深くなる。そしてその傷は、永遠に癒えることはないだろう。
 菜々子のてのひらの中で、スマートフォンが震えた。
『いま、手術中?』
 通話ボタンをタップすると、受話口から瀬戸の声が流れてきた。
「うん。一時間十五分くらいかな」
『長いね』
「二時間くらいはかかるって、手術前に先生に言われたわ。大変な手術みたい」
 菜々子は、不安を見せないように明るい口調で言った。
『君は大丈夫?』
「うん、大丈夫。小武蔵のほうが、もっともっと大変な思いをしているから」
 小武蔵が小さな体で闘っていることを思うと、弱気になっている暇はなかった。
『その君の思いは、必ず小武蔵に伝わるから』
「ありがとう」
『今日は、何時頃に帰ってこられる?』
「小武蔵の手術が終わって、その後の状態次第だから、ちょっと読めないかな」
『わかった。じゃあ、帰れる段階になったら連絡をくれるかな? シャンパンを用意しておくからさ』
「シャンパン?」
『うん。お祝いしないとね。小武蔵の全快祝いを』
 言葉の意味がわかり、菜々子の胸は熱くなった。
「わかった。できれば、キャビアもお願いね」
 菜々子がジョークを交えると、瀬戸が笑った。
 そう、今夜はお祝いだ。
 暗い気分になる必要はどこにもない。
『じゃあ、手術が終わったら連絡ちょうだい』
「うん。あとでね」
「ワンちゃん、手術なの?」
 菜々子が電話を切ると、いつの間にか眼を開けていた老婆が話しかけてきた。
「あ、はい」
「心配よね。その気持ち、わかるわ」
 しみじみと、老婆が言った。
「おばあちゃんも、ワンちゃんですか? ウチの子はしばいぬです」
 菜々子は訊ねた。
「そう。シーズーの男の子で、マルって名前よ」
 老婆が眼を細めた。
「マルちゃん、かわいい名前ですね。おいくつですか?」
「十歳だったわ」
「え?」
 老婆の過去形の返答が、菜々子には引っかかった。
「先生から呼ばれるのを待つ間、いつもここにお座りして、私を見上げていたのよ。そうしていれば、おやつがもらえると思ってね。マルは食いしん坊だったから」
 老婆が足元に視線を落とし、微笑んだ。
 マルというシーズーは、亡くなったのだろう。
「今日は、新しい子の治療ですか?」
 菜々子は胸が苦しくなり、話を変えた。
「新しい子を迎える気には、なれないわ。だって、マルに悪いもの」
 足元に視線を落としながら、老婆が言った。
「じゃあ、ここには……」
 菜々子は、言葉の続きをみ込んだ。
「ときどき、マルに会いにきているのよ。ここにくると、あの子が姿を見せてくれるんじゃないかと思ってね」
 老婆が幸せそうに眼を細めた。
 痛いほどに、老婆の喪失感がわかった。だからこそ、安易に慰めの言葉をかけることができなかった。
「マルに会いたいわ。あの子のペチャッとした鼻も、鼻水も、ビー玉みたいなまん丸な瞳も、恋しくてたまらないのよ」
 老婆がふたたび眼を閉じ、懐かしむように言った。
「いつも、あの人に頼んでいるのよ。一目でいいから、マルと会わせてって」
「あの人?」
「十年前に亡くなった、ウチの主人よ。マルと一緒の世界にいるだろうから、お願いしているんだけどね。ちっとも、聞いてくれないわ」
「亡くなられたご主人とマルちゃんは、別のところにいると思います」
 菜々子は、無意識に言った。
「別のところに?」
 老婆が眼を開け、げんそうに訊ねてきた。
「人に聞いた話なんですけど……。亡くなったワンちゃんは、天国に続く橋の前にいるそうです」
 菜々子は、「虹の橋の伝説」を語り始めた。
 少なくとも菜々子は、茶々丸が消えたのではないと思えることで心が救われた。
「天国に行かないで、橋の前でなにをしているの?」
 老婆が身を乗り出した。
「橋の前には草原が広がっていて、美味おいしい食べ物や新鮮な水があって、たくさんの仲間達がいます。旅立ったワンちゃんは、仲間達と遊びながら飼い主を待っているのです」
「どうして待っているの?」
 老婆が質問を重ねた。
「飼い主を天国に案内するためです」
「じゃあ、また、マルと会えるの?」
 老婆の瞳が輝いた。
「もう、会っていると思います。肉体が死んでも、魂が死んだわけではありません。マルちゃんは、透明の体でいまもおばあちゃんのそばにいますよ。少なくとも、私はそう信じています」
 菜々子は老婆に言うのと同時に、手術室で病魔と闘う小武蔵に思いをせつつ自らにも言い聞かせた。
「マルが、私のそばに……」
 老婆が足元をみつめ、微笑んだ。
 老婆のしわが刻まれた頬を、涙が濡らした。
 エレベーターのドアが開き、西沢獣医師が降りてきた。
「先生! 小武蔵は、大丈夫ですか⁉」
 菜々子は弾かれたように立ち上がり、西沢獣医師のもとに駆け寄った。
「手術は無事に終わりました。腸の腫瘍も切除しました。小武蔵君は、まだ麻酔が効いて寝てます」
「ありがとうございます! 本当に……ありがとうございます!」
 菜々子は西沢獣医師の手を取り、頭を下げた。
「まだ、小武蔵君は予断を許さない状態です」
 西沢獣医師が、硬い表情で言った。
「え……どういう意味ですか⁉」
 晴れかけた菜々子の心に、雨雲が広がった。
「腸の腫瘍が破裂していて、思った以上の大手術になり小武蔵君にも負担がかかりました。手術前から、かなり体力を消耗していたので」
「小武蔵は、麻酔から覚めないかもしれないということですか⁉」
「それはないでしょうが、覚めてからの予後が問題です。とりあえず、様子を見ましょう」
 西沢獣医師が、憎らしいほど冷静な口調で言った。
「小武蔵に会ってもいいですか?」
「麻酔から覚めたらご連絡します。面会できる状態になるには、五時間はかかると思います」
「わかりました。じゃあ、小武蔵が目覚めたら連絡してください」
「看護師のほうから、ご連絡差し上げます」
 西沢獣医師が頭を下げ、エレベーターに乗った。
 菜々子は立ち尽くし、西沢獣医師の背中を見送った。
 このまま、小武蔵の目が覚めなかったら……。
 菜々子の胸の中は、底なしの不安に支配されていた。
「大丈夫よ」
 背後から、老婆の声がした。
 菜々子が振り返ると、老婆は手を合わせていた。
「いま、マルにお願いしておいたから。小武蔵ちゃんがきたら、追い返してねって」
 老婆が穏やかな顔で頷いた。
「おばあちゃん……」
 心が震えた……涙腺が震えた。
 老婆の笑顔が、涙に滲んだ。

     ☆

「こうやって、二人で散歩するのはひさしぶりだね」
 ゴロウの歩調に合わせて、ゆっくり歩きながら瀬戸が言った。
 麻酔から覚めた小武蔵と面会できるまでに五時間はかかると言われたので、菜々子は「セカンドライフ」に顔を出した。
 気分転換の意味で、瀬戸が菜々子をゴロウの散歩に誘ってくれたのだ。
 ゴロウは雄のフレンチブルドッグで、十五歳になる。眼と足が悪くなり飼うのが大変になったという理由で、動物愛護相談センターに持ち込まれたゴロウを「セカンドライフ」で引き取ったのだ。
「あら、ご夫婦で犬のお散歩? いつもなかむつまじいのね。ごそう様!」
 金物屋の光子が、冷やかしてきた。
「おばさんのご夫婦の熱々ぶりには、かないませんよ!」
 菜々子は軽口を返した。
「おやおや、初めて見るワンちゃんね。おじさんがおやつをあげよう」
 青果店のげんが、一粒のシャインマスカットを手にゴロウに歩み寄ってきた。
「源さんっ、ダメ!」
 菜々子は、源治の手から奪ったシャインマスカットを口の中に放り込んだ。
「あ! そんな意地汚い真似まねをしなくても、菜々子ちゃんには一房あげるから……」
「違うの。この子達は、ブドウで中毒症状を起こす場合があるから。最悪、死んじゃうこともあるのよ」
「え! そうなの? ごめんごめん! 知らなかったよ!」
 源治が慌ててびながら、顔前で手を合わせた。
「チョコレートやネギ類が中毒症状を起こすのは有名だけど、ブドウがNGなのは意外に知られてないからね。それより……」
 菜々子は、源治に片手を差し出した。
「ん? なんだい?」
 源治が、きょとんとした顔で菜々子を見た。
「シャインマスカットを、一房くれるんでしょ?」
 菜々子は、ニッと笑った。
「え……あ、ああ、ちょっと待ってて」
「冗談よ、冗談! 今度、買いにくるから!」
 菜々子は源治に手を振り、足を踏み出した。
 あのときと、似ていた。
 茶々丸がいなくなってからの五年間……心では泣いているのに、明るく笑顔を振りまいていたあの頃の自分に。
 不安で、たまらなかった。また、最愛のパートナーを失うかもしれないことを。
「僕達には、たくさんの子供達がいるから、なかなか二人の時間が取れなくてごめん」
 不意に、瀬戸が詫びた。
「なに言ってるのよ。そんなあなただから、一緒になったんじゃない。私は、この子達に人間にたいしての愛情と信頼を取り戻させてくれたあなたが誇らしいわ」
 菜々子は、首を垂れてよたよたと歩くゴロウをみつめて言った。
 本音だった。
 瀬戸でなければ、生涯、結婚することはなかっただろう。
「そう言ってもらえて、うれしいよ。待ち遠しいね」
「ん?」
「小武蔵が戻ってくるのがさ。手術が終わったら、入院は一週間くらいだったっけ?」
「あ、うん。そのくらいで退院できると思う」
 菜々子に希望を持たせてくれようとしている瀬戸の優しさが、伝わってきた。
 菜々子が明るく振る舞っていても、心を占めている不安を瀬戸に見抜かれていたようだ。 
「小武蔵は、『セカンドライフ』の太陽だからね。お前も、早く会いたいだろ?」
 瀬戸が腰をかがめ、ゴロウに給水ボトルで水を与えながら語りかけた。
 ゴロウは、小武蔵と遊んでいるときだけ十歳くらい若返ったようにはつらつとした動きになる。
 ゴロウだけではない。「セカンドライフ」の古株で面倒見のいい小武蔵のことを、保護犬達はみな慕っていた。
 ヒップポケットが震えた。
 菜々子は、ヒップポケットからスマートフォンを引き抜いた。ディスプレイには、「東京犬猫医療センター」の名前が表示されていた。
「もしもし?」
『「東京犬猫医療センター」の看護師のざわです。小谷さんのお電話でよろしかったでしょうか?』
 若い男性の声が、受話口から流れてきた。
「はい! 小武蔵は目覚めましたか⁉」
 菜々子の、スマートフォンを握る手に力が入った。
『いま目覚めたんですけど、まだもうろうとしているので、二時間くらいってからきていただいてもよろしいですか?』
「目覚めたんですね! よかった!」
 菜々子は、思わず叫んだ。
 瀬戸が満面の笑みを浮かべながら、菜々子の肩に手を置いた。
「大声を出して、すみません。では、八時くらいに伺います!」
『正面玄関は締まっていますので、入院病棟のインターホンを鳴らしてください』
「わかりました!  本当に、ありがとうございます!」
 菜々子はスマートフォンを耳に当てたまま、頭を下げた。
「小武蔵、目覚めたんだね」
 菜々子が電話を切ると、瀬戸が嬉しそうに眼を細めた。
「うん! でも、まだ意識が朦朧としていて立ち上がれないみたい」
「仕方ないよ。人間でも全身麻酔から覚めた直後は、しばらくは動けないっていうからね」
「八時くらいって言ったけど、落ち着かないから、早めに行って病院の待合室で待機してるわ。もしかしたら、それまでに小武蔵が立ち上がれるかもしれないし」
 菜々子は声を弾ませた。
「送ろうか?」
「ううん。時間があるから、電車で行くわ」
「そう。じゃあ、僕も店が終わったら行くから。あとでね」
「無理しないでね。私は一人でも大丈夫だから。ゴロウが心配していたって、小武蔵にも伝えておくね!」
 菜々子は瀬戸に言うと、ゴロウの頭を撫でて地下鉄の駅へと向かった。

     ☆

 1、2、3とオレンジ色に染まるエレベーターのランプを、午前中と同じように菜々子は視線で追った。

『小武蔵ちゃん、まだ立つことはできませんけど、起きているので上がってきてください』 

 看護師から連絡が入ったのは、八時ジャストだった。
 菜々子の胸には、暗雲が垂れ込めていた。
 麻酔から覚めても立ち上がれないとは、どういうことなのだろうか?
 もしかして、手術は失敗したのか?
 小武蔵は、後遺症でこのまま立ち上がれなくなってしまうのか?
 考えないようにしても、次々と不吉な予感が菜々子の胸を過った。
 扉が開くと、午前中とは別の男性の看護師が菜々子を出迎えた。
「看護師の伊澤です。小武蔵ちゃんに会う前に、少しお話があります」
 看護師が言った。
「なんでしょう?」
「麻酔から覚めましたが、小武蔵ちゃんはとても立ち上がれる状態ではありません。まだ、意識が混濁しているような感じです。お呼びしていながら大変申し訳ないのですが、一晩様子を見させていただいてもよろしいですか?」
 伊澤看護師が、言いづらそうに切り出した。
「え? つまり、今日は小武蔵に会えないということですか?」
 菜々子の危惧の念に拍車がかかった。
「会えないということではないのですが、いまの状態の小武蔵ちゃんを見たらご心配が……」
「伊澤さん!」
 入院フロアから、女性の看護師が慌てた様子で現れた。
「なに?」
「小武蔵ちゃんが……」
 菜々子はとっに、女性の看護師の脇を擦り抜け入院フロアに駆け込んだ。
 壁に埋め込まれたケージの上段の右端――胴部に包帯を巻かれ、何本もの管がつけられた小武蔵が立ち上がっていた。
 眼は閉じ、半開きの口からだらりと舌が出て、四肢はブルブルと震えているが、小武蔵は懸命に立っていた。
うそ……」
 背後で、伊澤看護師がつぶやいた。 

 ママ……僕は大丈夫だから……。

 小武蔵の声が聞こえたような気がした……いや、たしかに聞こえた。
「小武蔵、頑張ったね! 本当に、偉い……」
 小武蔵の体が、スローモーションのように横倒しになった。
「小武蔵!」
「西沢先生を呼んできて!」
 菜々子の叫び声に、伊澤看護師のひっぱくした声が重なった。   

 (第十七話に続く)

プロフィール
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
小説家。実業家。映画監督。98年に『血塗られた神話』で第7回メフィスト賞を受賞し、デビュー。“黒新堂”と呼ばれる暗黒小説から、“白新堂”と呼ばれる純愛小説まで幅広い作風が特徴。『ASK トップタレントの「値段」(上・下)』『枕アイドル』『極悪児童文学 犬義なき闘い』『虹の橋からきた犬』(全て集英社文庫)など、著書多数。芸能プロダクション「新堂プロ」も経営し、その活動は多岐にわたる。

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