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海路歴程 第六回<上>/花村萬月

.    08

 首里城内は静まりかえっていた。
 黒豚は、喉を切開されたことに気付いていない。
 半月のかたちをした刃物を携えた円心えんしん様が眼差しを伏せている。
 豚のまわりには女しかいない。
 さんじゅうさんくんが円心様のまわりに円を描いているなか、げっせいのみが第五代聞得きこえの大君おおきみにしてしょうてい王妃である円心様の背後にたたずんでいる。
 男たちにまかせきりの豚の命を戴く仕事だが、今日にかぎって祝女のろたちが行うようにと円心様から言いつけられた。
 豚に刃物を用いた円心様は、微動だにしない。皆、いよいよ神妙であるが、月静にはやや芝居がかって見えた。
 それよりも豚の喉笛から不思議な光が射している。
 この光が見えるのは、どうやら月静だけであるようだが、口にすれば、おなり神の証しなどと言われかねない。
 遠くから小さくせる気配がとどき、線香の煙が帯となって流れてきた。
 月静はびゃくだんのしんと沁みる高貴な甘さのある香りを胸に充たしながら、円心様の背と、その先に横たわって光を放つ黒豚に視線を落としている。
 私に切らせなさい、と唐突に円心様が口にしたとき、周囲は慌て気味に制止した。けれど太陽てだ依代しろである円心様に神が降りたことを悟った皆は、沈黙した。すべてを円心様にまかせた。
 切り口は躊躇ためらいのない綺麗な直線だった。やがて目に見えない指先が、傷口を静かに拡げていく。傷は菱形に開いていき、分厚い皮膚、白い脂の層、赤い肉と順繰りに露わになっていく。
 切開される直前までは大騒ぎしていたのだが、円心様の手で三日月形に反った短刀を喉笛に宛がわれた瞬間、豚は鎮まった。静かに刃物を受け容れ、微動だにしない。
 ただしそれは諦念ではなかった。しんが月静に伝わってきた。豚の怒りである。
 己が身に起きた不条理と不幸に対する怒りそのものの怒りとでもいうべき純粋な怒りに覆いつくされて、豚は凍えているかのようだった。
 あまりの静けさに、逆に怒りの深さを感じた月静は、円心様の斜め背後で前屈みになって目を凝らし、豚の喉笛を覗きこむ。
 月静の眼差しが豚の怒りを解き放った。黒豚は見つめられた瞬間、はち切れそうな体軀を左右にはげしくよじって跳ねあがるように反り返り、身悶えし、口からも裂けた喉笛からも怒りの声をあげて痙攣けいれん気味にふるえた。
 四方八方に血が飛ぶ。
 しっかり押さえろと婆が叫んだが、しゃがれ声なので豚の悲鳴に掻き消された。
 豚の首の切り口から発した光は、天地四方に放射状に流れていく。加えて火薬が燃えたかのような香りまで漂いはじめた。怒りの匂いである。
 豚だって人だって、痛いのはいやだ。
 豚だって人だって、苦しいのはいやだ。
 豚だって人だって、死ぬのはいやだ。
 豚は黒々とした目で切なげに月静を見た。
 哀れになって、月静は胸のうちささやいた。
 もうきなさい。
 とたんに豚の軀から張りと力が失せた。
 喉の傷から放たれる光輝が衰えていき、黒豚は息を止めた。
 怒りに逆立っていた黒々とした体毛が静かに眠っていくのを月静は見守った。
 円心様が振りかえった。刃物を手にしたまま月静に視線を据えた。円心様の手指が朱に染まっている。
 お付きの祝女がひざまずき、恭しく円心様から刃物を受けとった。
 絶命した豚は滑車で逆さ吊りにされ、血抜きされる。婆が膝をついて、滴る血を素焼きの壺に受ける。
 ときおり王のために一頭、清国からさくほう使が大挙して押し寄せてくれば毎日二十頭、こうして豚の命を戴くが、皆は円心様が手ずから刃物を扱ったことが信じ難かった。
「ちゃんと飲んでいるか」
 血を受ける婆を一瞥いちべつした円心様から問いかけられて、月静は頬を引き締めて答えた。
「正直に申しますと、古くなったものは飲むのが苦しいときもありますが、婆様に差しだされれば、必ず。毎朝必ず──」
「そうか。血を戴く。命を戴く。大切なことぞ。まして月静は真の神懸かりである。たくさんの命を受け容れよ」
 円心様の寂声さびごえは心地好く、間近にもかかわらず月静は耳を澄ます。
「見えたか」
 問いかけに、月静は控えめに頷く。
「何色であった?」
「──青みがかった紫でした」
 円心様が月静を背後に立たせた理由を知って、月静以外の全員が豚の血で汚れるのもかまわず、叩頭こうとうした。
「青紫。生きとし生けるもの、命をうしなうときに放つ色である」
「豚も光るのですね」
「見たであろう。豚の命が私の軀を通って天に昇っていったのを」
 なぜ豚の命が円心様を回り道していくのか理解できぬまま、月静は手を合わせて頭を下げ、迎合した。
「昇天する命の光、しかと目のあたりにしました。命、ないがしろにせぬよう気配りいたします」
 円心様は月静の心を読んだかのように声をあげた。
「殊勝なり」
 口調と裏腹に、その目の奥が悪戯っぽく笑んでいる。口先だけであると見抜いているのだ。隠し事ができないとなると、月静は逆に遠慮なく問いかけた。
「人も死ぬときは、豚のように青紫に光るのですか」
「そう。青紫。なぜだと思う?」
「──人も豚もいっしょ?」
「その通り。月静も死するときは青紫の光を放つ。これはどういうことか?」
 たどたどしい口調で月静は答える。
「ええと、なんといいますか、命に優劣はないってことでしょうか」
「その通りであるが、加えて青褪めた紫は、きよめの光である」
「豚は浄められた!」
「そう。浄め。豚は怒っていたであろう」
「はい。烈しく」
「その一方で、いよいよ命果つると悟ったとき、怒りと同時に浄めに身をまかせた。だからこその光輝である」
 円心様の瞳の奥で青紫の焔が揺れた。円心様は唇を動かしていないが、月静にはたしかに聞こえた。
──月静よ、おまえが浄めたのだ。
──私が。この月静が?
──ようこうべを垂れよ。
 前屈みになると、円心様はやや背伸びするような態勢で、月静の頭をでてくれた。指先が血に濡れていたので、髪が思いのほかきつく引っ張られ、月静は頬を引き締めた。
 爪先立った円心様が、月静に秘密を囁く。
「強いものが、くらう」
 さらに声を落として付け加える。
「だからこそ、強いものは啖わずにすますこともできる」
 月静は腰を屈めたまま円心様の耳の奥に率直な本音を吹きこむ。
「されど啖わずに生きることは無理」
「身も蓋もない。ならば、どうする?」
「御免なさいと謝りながら、啖う?」
「月静は謝りながら啖っているのか」
「いえ、ただ啖います。美味しい、美味しいと笑顔で啖います」
「それで、よい」
 頃合いと、婆が素焼きの茶碗になみなみと豚の生き血を注いで、月静に差しだした。啖うなどと答えたが、月静は豚の肉を食べたことがない。
 まだ生温かい豚の命を、円心様の眼前で味わう。皆は叩頭したままである。
 円心様は口のまわりや歯を緋に染めた月静を見つめ、大きく頷いた。
 滋養のためと、幼いころから月静は折々に血を飲まされていた。特別扱いではあるが、はじめのうちは生臭さに閉口した。やがて慣れた。
 それしか口に入れるものがなかったといえばそれまでだが、慣れてからは舌全体にうっすら拡がる塩みや、その奥から囁くように立ち昇る渋みが好ましいものに変化した。
 病弱だったが、生き血を戴くようになって病と無縁になった。伸びやかに育った月静の軀は、生き血でつくられた。
 円心様のような例外もあるが、祝女は、建前として独り身でなければならない。
 一方、生娘である祝女はほとんどいない。媾合こうごうによる合一は、神懸るための大切な要素なのだ。
 まだおさなさの残る月静だが、その美貌もあって、常に男がまとわりついた。ほとんどは無視するが、まったく男を知らないわけではなかった。
 男は腋窩わきのしたを濡らす汗の底にかすかな鉄錆の香りを漂わせ、そこに唇を宛がえば、うっすら塩の味がして、月静に血を連想させた。月静は初めて男と交わったときから、媾合に死を感じとっていた。
 豚は四肢をだらんと伸ばして天に召され、物になった。
 血を受けた壺を土間において、婆が歯のない口を動かしながら両手を合わせる。命を戴きますと祈っているのだ。
 円心様は皆に向けて静かに頷いた。皆は地に伏したままだが、なにかが伝播して、その背が波立つように緊張した。
 豚の命を戴く儀式は一頭だけで終わった。円心様はこれからちゃ殿どぅんに向かうのだろう。冊封使を持て成すのだ。
 冊封使も薩摩も大嫌いな月静は、同行を求められたらいやだなと腰が引けていた。そんな月静に円心様は柔らかな笑みを向けただけだった。
 鳴き声以外、すべて食い尽くす──と琉球の者を揶揄やゆする声もあるという。無駄にしないことは大切だし、無駄にできるほどの余裕があるわけでもない。
 この豚だって肉のよいところはすべて冊封使が啖う。
 清の冊封使が乗った二隻の冠船かんせんが大きな帆に風を孕んで那覇の湊に入るのを、月静は婆に連れられて薩摩に焼き払われて石垣だけの廃墟と化した浦添うらぞえのお城の高台から望見したことがある。
 薩摩の船など比較にならぬ巨大さで、二隻で合わせて五百人以上乗っているらしい。赤や緑に黄色と色鮮やかに塗りわけられた船体は、藍緑に染まった海から浮きあがって見える派手さだった。
 冊封使は半年以上居座るので、そして豚を食いたがるので大変だ。おきのはおろか奄美にまで豚を求めるらしい。
 清に貢ぎ物をして交易のためのあれこれを手に入れる算段をする琉球であるが、近ごろは煙たがられているともいう。清は以前ほど頻繁に冊封使を遣わすこともなくなった。
 だが貿易は琉球の命綱で、なんとか清国を引きとめねばならぬ。
灰汁はいじる
 歯がないことで滑舌の悪さを自覚している婆は、皆がいるところでは最低限の言葉しか発しない。婆はいつだって唐突だ。月静は聞こえぬふりをした。
 円心様に食べて戴くそばを打つための灰汁づくりだろうか。月静はやったことがない。それどころか、そばを食べたこともない。単調で退屈な作業であることがなんとなく察せられて、できるならば他の祝女にまかせて逃げだしたい。
 足でもいいから、食べてみたい──と月静は男たちによって胴を二つに断ち割られていく豚を一瞥した。
 豚の足を煮込んだものを食べると、肌に磨きがかかると聞いた。月静は肌の艶と張りが自慢で男女問わず褒められるが、さらに磨きをかけたい。
 なによりも、じっくり煮込んでくるぶしあたりの細かな骨がほぐれ落ちるまで煮込んだ豚の足は、ねっとり艶のある美味さであるという。よもぎを散らして戴けば、最初の一口などまいを覚えるほどだと皆が言う。
 豚に未練を残す月静を、婆が叱る。月静はあわてて婆を追う。
 婆は月静と二人だけになると、よく喋る。他の者はわかったふりをして適当にあしらうが、月静は婆がなにを言っているか、わかるのだ。
 そもそも月静は、婆に対しては耳で言葉を聞いていない。
 心で聞いて、声で答える。婆は耳はいいのだ。婆は途方もない物識りだ。
「月静は豚が好きだな」
「はい。幼かったころは怖かったけれど、あの真っ黒な目をじっと見つめていると、深い穴の底に落ちていくような気分になって」
「で、どうなる?」
「穴の底のどこかで私とつながっているのではないかって──」
「月静は豚とつながっておるということか」
「なぜか豚の気持ちがわかります」
「うん。それはおまえが勝手に豚の気持ちになっているのではなく、豚が訴えかけている思いを、ほんとうに悟っておるのだ」
「今日の豚は、円心様のおかげで自分が死ぬとは思っていなかったようです」
「だとしたら、それはそれで、哀れなことよのう」
 喉を切開された豚は、その瞬間、静かに怒っていた。話がちがう──と訴えていた。やがて怒りを炸裂させた。
 豚の怒りを事細かに婆に告げるべきか月静は考えこみ、適当な言葉が見つからず、黙りこむ。
 すっかり肉が落ちた二重目蓋を見ひらいて婆が言う。
「円心様が月静の不思議な力はいやしておるがゆえに、くれぐれも大切にせよと皆に申しておったぞ。男をたのしんでも、月静の力は衰えるどころか強くなっていると──」
 月静は曖昧な笑みのようなものを返す。もちろん笑ってはいない。口許にこびりついてしまった保身である。
 豚の気持ちもわかるが、なによりも他人の心が読めてしまうのだ。
 これが、とてもきつい。
 女たちの嫉妬や羨望もだが、柔らかな頬笑みと共に優しい親身な言葉をかけながら身を寄せてくる男が、なにを想っているかわかってしまうのだ。
 性に目覚める前は意味がわからなかった。軀は成熟に向かっているが、心が追いついていなかった。怖さだけしかなかった。まだ幼い心で、性衝動と暴力衝動は兄弟であることを悟ってしまっていた。
 けれど、いよいよ自身の内面にも男と同様の衝動が隠れていることを悟り、いまでは慾動よくどうをやや持てあましていた。月静は快活な声を意識して、話をすり替える。
「婆様はどこが好きですか? 私は耳や足、端っこを食べてみたい」
「いまでこそ、祝いの日などに皆が口にできるようになったが、薩摩芋がつくられるようになるまでは、豚どころではなかったさ」
「薩摩芋? 豚に食わすのですか。豚は薩摩芋を食っているのですか」
「いいや、芋は人が食うに決まっておる。月静も好物だろう?」
「はい。ときにうっとりするほど甘い芋に出くわすことがあり、そんなときはじつに嬉しいものです」
 まだまだ子供っぽい月静である。けれど、薩摩芋を食べたことがない。血しか知らないのだ。だが、心を読めるので、他人に合わせるのは簡単だ。婆は笑みをうかべて言う。
「芋は人、つるや葉は豚が食う。昔は豚に食わせる物がなくて、苦労したものよ。薩摩芋のおかげで餌の苦労がだいぶましになった。豚を育てるのが一気に楽になった」
 婆は皆の前では意地になってほとんど言葉を発しないが、月静といればしゃべり放題である。
「もったいないことだが、薩摩芋の皮を豚に食わせると、毛艶がよくなり脂が乗る」
 うんうんと真顔で頷く月静をいとおしげに見やりつつ、婆は続ける。
「薩摩芋は一昔前、明国から宮古を経て伝わった。ふくしゅうから鉢に入った薩摩芋を芋大主、ぐにそうかん様が持ち帰られたのだ。で、首里城にお勤めしていたしんじょう様が野國村まで出向いて苗をわけて戴いてな、琉球全土に薩摩芋を広めたということだ」
 婆は立ちどまり、曲がった腰をトントン叩く。月静を見あげる。凝ったところをんであげたいが、それを口にしただけで叱られるので、見守るばかりである。
「薩摩が攻めてきて琉球芋を持ち帰ってな、あげく薩摩芋という名を押しつけてきた」
「──てっきり薩摩から伝わったと思っていました」
「まこと月静はものを知らんな」
「申し訳ありません」
「よい。おまえの少し足らないところが、かわいらしい」
「足りない月静ですが、それでも婆様といれば、多少はましになります」
 婆は顔をしかめた。世辞を受け付けない。月静は曖昧に眼差しを伏せた。婆は委細かまわず付け加えた。
「荒れ地でも育つ薩摩芋のおかげでな、皆の飢えは多少はおさまった。以前よりもたくさん豚を飼えるようになった」
「薩摩芋の花は、昼顔みたいで美しい。ところで、なんで婆様は琉球芋をわざわざ薩摩芋というのですか」
「そりゃあ、薩摩の前でなにかの拍子で琉球芋と口にすれば、面倒なことになる」
「なるほど!」
「目を見ひらくようなことか」
 これ以上無知をさらせば婆のかんしゃくを誘う。叱られかねない。さりとて率先して会話を運ぶこともできない。もともとそば打ちの灰汁づくりに誘われたのだから、その方向に質問を変えることにした。
「なぜそばに灰がいるのですか?」
鹹水かんすいという物があってな、清の山奥の、そのまた奥に、鹹湖という塩水の湖があるそうな」
「海の水ではないのに、塩水。真水が塩水なのですか?」
「訳のわからぬことをかすな。真水は、真水だ。塩水と申したであろう。たぶん地の塩が溶けた湖ではないか」
「地の塩」
「そうだ。その鹹湖の水で小麦の粉をね、麺打ちをすると、すばらしい腰と艶がでるそうな」
 婆がなにを言おうとしているのか理解できない。率直にいって塩水で麺を打つと腰と艶がでるならば、海の水で打てばいいではないか。それでも鹹湖の水、鹹水は特別で、美味しい麺ができることは理解した。
「鹹水は、とても貴重な品だ。おいそれと手に入れることはできぬ」
 実際は明の時代に木の灰が鹹水の代用になることが琉球に伝わっていたこともあって、目の色を変えて鹹水を求める理由はなかったのだ。
 月静はしみじみ思う。清国に貢ぎ、薩摩に支配されている。
 その昔、明は鷹揚で貢ぎ物以上の返礼を与えてくれた。交易その他、特別扱いしてくれたのだ。おかげで琉球は貿易でたいそう栄えたという。
 けれど清と薩摩はどちらも奪うばかりで、琉球にとっては害毒だ。
 清国の男共が、薩摩の男共が、なにを考えて、なにを思っているかを月静は知ることができる。儀式や饗応の場に出向き、円心様の背後に控え、異国の男たちの心を読む。円心様が王にそれを伝える。
「なんだか、どんどん悪くなっていきます」
「薩摩は清よりも、よくない。余裕がない。なにやら必死だ。それなのに居丈高に見くだしてくる」
「いつも歯を食いしばって汗を噴いているような」
「薩摩か」
「はい。なんであんなに力むのか」
「貧しいからであろう」
 琉球も貧しさでは負けていないと胸の裡で呟く。だが薩摩の貧しさは琉球とちがって、きっと凄まじく重いのだ。薩摩の侍は大きな石を背負わされている。
 婆の指図で枝を選びだす。月静は腰を曲げて榕樹がじまるの枝を引っ張る。腰の曲がった婆は腰を屈める必要がない。
 男衆が樹上に登ってったものだ。薪として使えるように切断放置してあるので乾燥している。太さ長さのわりに、軽い。
 こんな太い枝を伐ってしまっていいのだろうかと榕樹を見あげる。
 枝の一本くらいくれてやると、榕樹の大木は彼方の海から吹きあげる風に卵のかたちをした葉と爺の髭じみた気根を鷹揚に揺らせて応えた。
 びきもん外にある、石を敷きつめたもっかいづくりのための場に枝を引きずっていき、なたで程よい長さに切断していく。
 城外にでると、いままで肌を押さえつけていたなにものかが消え去って、不思議な解放感がある。重々しかった大気が、程よくまばらになるのだ。
 婆の指図に従って火を付ける。のんびりたきだが、梅雨も明けた稲大祭=るくぐぁっちまちーのころなので、婆も月静も風上に逃げ、焔の熱を避けた。
「婆様が首里の大アムシラレになられたのは幾つくらいでしたか」
「さあな」
 にべもない婆に、月静は首をすくめた。それでも意を決して訊いた。
「首里にたった三人しかおられない大アムシラレです。憧れているのです。私も近づけるでしょうか」
「近づけるもなにも、月静はてん祝女の生まれ変わり」
 出し抜けな婆の言葉だった。月静は自分を指差す。
「私が?」
「遠い昔、太陽依代であった場天祝女は、聞得大君に太陽依代を禅譲したのだ。太陽依代を譲った場天祝女は、月依代となった」
 場天祝女のことは聞いたことがある。漠然と偉い人であると思っていた。
 婆は神扇をひらいた。汗がにじんだ額のあたりに向けてせわしなくあおぐ。月静は婆の手から扇をとり、扇いでやる。
「場天祝女の血を引き、その血がもっとも濃い月静は、まごうことなき月依代である」
 今のいままで孤児であると信じてきた月静は、唐突に出自を明かされて、困惑するよりも他人事という顔つきだ。
 どのみち父も母もいないのだ。派手な黄色地の真ん中に鮮やかな日輪、その左右に鳳凰と瑞雲が描かれている神扇を月静は慾しくてならない。
「婆様。私は大アムシラレになりたい」
 せがむ口調の月静に向けて、婆は神扇の裏を示した。中央に銀の月輪、左右に血の色の牡丹と見事な黒揚羽蝶が描かれていた。
「婆様。私は大アムシラレになれますか」
 繰り返して、顔を寄せて迫る月静を、叱るような口調でたしなめる。
「莫迦なことを吐かすな。いずれ、皆がおまえに平伏す」
「凄いですね」
「なんだ、その気乗り薄な声は」
「だって」
 軽く口を尖らせながら、太陽依代の聞得大君と月依代のどちらが偉いのだろう──と考えこんだ。
「それは太陽依代を聞得大君に譲った場天祝女が偉いに決まっておる。場天祝女は祝女の開祖だからの。が、聞得大君は王の妃。現世で月静は聞得大君の下に就く」
 はい! と弾んだ声をあげた月静を、婆はしげしげと見やる。顔に視線を感じた月静は頬のあたりに触れて、なにか? といった眼差しを投げ返した。
 慾がないというべきか、稚ないというべきか。正当な祝女の血筋と類いまれなる力をもちながら、無自覚なのである。
 その一方で、成熟に向かう肉体が色香を放つ。妍艶けんえんが匂いたつ。老いた婆でも正視をためらうことがある。燃え盛っている眼前の榕樹のごとき根深い情炎を抱えて、当人も途方に暮れているのが見てとれる。
 焔が弱まったのを見計らって婆は月静に火掻き棒をわたした。炭化しつつも強弱をともなって明滅を繰り返す榕樹を、月静は面白がって突き崩していく。
 婆は真横から月静の首筋を伝う汗を凝視している。汗に濡れた後れ毛がえも言われぬ曲線を描いている。
 なんという色香!
 尋常でない艶めきである。男は否応なしに惹きよせられ、月静にまとわりつく。こうなるとほとんど厄災ではないか。
「月静」
「はい」
「男と交わって、どうだ?」
 いきなり問いかけられて、それでも月静は率直に答えた。
「──心地好すぎて、我を忘れます」
「どのように?」
「どのようにって、その、なんというか、ひたすらちていきます。はじめのうちはてつもなく高く浮かびあがるのですが、あとはひたすら墜ちていく。その墜ちていくのが心地好くて」
 月静は言葉を呑んだ。頬を上気させた。
 恍惚を語りながら月静が発情し、催しているのを悟った婆は顔をそむけた。しばらくあいだをおいて、小声で言った。
「抑えることも覚えぬと、そこいらの犬ころといっしょだぞ」
 月静は泣きだしそうなかおになった。
「婆様、どうすれば、どうすればよいのでしょう」
「どうしたものかのう。抑えられるなら、苦労せんわな」
 なんの答えにもなっていないぼやきだったので、婆は苦笑いした。
わしも強くてな。もてあましたものよ。男衆のように一直線に迫るわけにもいかぬでな。内奥で沸々とたぎらせているくせに、素知らぬ涼しい顔をつくってな」
「なぜ、女には、このような罠がしかけられているのですか」
 罠──。
 月静は心底から性の慾動を、そう感じているのである。
「婆様。私はそれを充たすと、しばらく立ちあがれなくなるのです。半分眠っているかの夢幻にあり、腰の痺れが抜けず、半日ほども動けずに揺蕩たゆたっているばかりといった有様。余韻というのですか。大層、心地好いのですが、怖くもあるのです」
 感応である。人が直接、接触し交流することのできぬ存在とのあいだに不可解な作用が起こり、反応しているのだ。
「神と交われば、それは疲れるわな」
「婆様。私は男と交わっているのです」
「なにを力む。おまえは男を通して神と交わっておるのだわ」
 月静は納得していないが、黙りこんだ。
 婆は榕樹がこれ以上焔を放たぬことを見取って、月静をいざなう。
「もうほうっておいてだいじょうぶだ。この陽気におきあぶられるのは酔狂すぎる。西いりのアザナへ行こう」
 のぼると首里や那覇はおろかきらめく海と彼方のの島々まで見わたせる。
 王国の藍に白の旗が西風に揺れ、鐘で時刻を報せる役人が奇妙なほどに緊張して平伏した。
 涼みにきた婆は偉そうに頷き、月静は首をすくめて頭を下げた。すぐに役人の緊張の理由がわかった。
 薩摩の侍が腕組みしてしょうの上に座っているのだ。若いが、びんのほつれ毛が獅子のように猛々たけだけしい。
 婆は気付かぬふりをして無視し、月静は控えめに一礼した。
 顔をそむけたかったが、必死で月静は平静を保ったのだ。
 琉球の男にはない静かなる裂帛れっぱくの気が男の額から放たれている。光の束として実際に見えるのだ。
 この男は、人殺しだ!
 禍々まがまがしく鋭い光の針が月静の肌に刺さり、内奥にまで刺激を与えてくる。
 月静は、ことさらな無表情をつくって侍を見やる。
 侍も月静から目を離さない。月静に魅入られているのである。唇を戦慄わななかせかけ、それを隠すために唇をきこんだ。
「──女。名は?」
 侍が掠れ声で問いかけると、婆が侍の貧しい身なりに醒めた侮りの視線を投げて、月静の代わりにぴしりと応じた。
「無礼者。この御方をなんと心得るか」
 歯のない婆にしては、じつに滑舌がしっかりしていた。
 老成した人殺しである一方、まだ青臭さの抜けぬ下級丸出しの侍は婆の一喝に床几からしりを浮かせ、中途半端な態勢で月静に頭を下げた。
 さらに畳みかけようとする婆を制して、月静がにこやかに言った。
「月静と申します。ここは首里のお城でも一番よい風が抜けます。ほら、あれがしき島です。重なって見えるのが前島ですが、なにを監視なさっておられるのですか」
 柔らかな口調だが含みのない問いかけに、侍は狼狽うろたえた。
「監視──。そういう役目ではありませぬ。この上は涼しいと聞いて、その、まあ、涼みにきて」
「お役目は?」
 重ねて問われ、侍は苦しげに、けれど顔をそむけずに真正面から答えた。
爪弾つまはじきにされる若輩ゆえ、役などございませぬ」
 役目がないはずもないが、微妙に話がすり替わって役がないと答えた侍に、卑下する気配はなかった。肯定してあげるかのように月静は笑んだ。
「ああ、いっしょでございますね。私も若輩ゆえ、お城の外で榕樹を燃やして灰にすることを命じられて、いままで婆様にいたぶられておったのです」
 婆が目を剥いた。
 月静は軽やかに笑う。
 まあ、よい。侍を手玉にとっておるのだから──と婆は調子を合わせる。
「この御方は神にもっとも近い御方である。されど己が何者であるか、わかっておらぬのだ。くれぐれも礼を失せぬように致せ」
 命令口調で侍に迫りながら、婆は月静の様子を横目で窺っていた。
 神がいている。
 先ほどまでの月静とは別の女である。
 婆は眼差しを伏せ、三歩下がった。
「月静様」
「あら、様がついた」
「当然でございます。婆は月静様をいたぶったことなどございませんし、面白がってこの若侍をいたぶることのないように」
 一喝されたときと違い、侍はもごもご喋る婆がなにを言っているのかほとんどわからない。けれど、なんとなく気配として意味を感じとることはできる。
 月静が婆を慈しみのこもった眼差しで見つめた。
「いたぶるという言葉は、いやな言葉です。婆様はいたぶられたのですね」
「──はい。幼いころ、さんざん、いたぶられて育ちました。いたぶるという言葉を聞くと、このしわしわの肌がいまだに縮みます」
「よかったですね」
「よかった?」
「ええ。いたぶられたから心に神がり込んだ。もっとも、いたぶられたからといって誰にでも神がおとのうはずもありません。苦しくてひしゃげてしまう者がほとんど。婆様はいたぶりの心に神を見ることができた稀有な御方」
 婆は頭をたれた。月静は侍に向きなおる。
 月静は侍よりも少しだけ背が高い。けれど侍は、まるで天上から見おろされているかのように萎縮した。
「お侍様。御存じないでしょうが、婆様は、この首里のお城に三人しかおられぬ大アムシラレでございます。粗略に接すれば、報いを受けます」
 月静の言葉に合わせて、婆が歯のない口で笑う。真っ直ぐ侍を見つめる。
 婆の目の色が尋常でない。瞳の奥で揺れる光は、黄金色である。
 侍はいよいよ霊力に押されて、まともに婆と月静を見られなくなった。
「婆様は、涼んでいてください。灰の様子は私が見ておきます」
 にこやかに言い、侍を見つめた。
「ついてきなさい」
 一声命じると、背を向ける。
 侍は魂を抜かれたかのおぼつかぬ足取りで月静の後に続いて、珊瑚の成れの果てである多孔質の尖りが剣呑な灰白色の石でこしらえられた急な石段を降りた。
 薩摩の威光を借りて琉球の者たちに威張り散らしてきたであろう粗暴な若侍だが、有無を言わせぬ逆転があった。
 いったん古曳門をでて、榕樹の灰の様子をみる。月静は先ほどと同様、愉しげに火掻き棒で燃えつきた榕樹を崩していく。
 侍は月静の伸びやかな肢体に釘付けだ。けれどその貌を正視することはできない。無邪気に榕樹を突き崩す月静に対して、畏れ多いとの気持ちを抱き、いまだかつて目にしたことのない美貌に臆してしまっているのだ。
 古曳門から城内にもどる。正殿までは宏大な聖なる森が続く。首里すいむいたきの裏手、京の内と称される鬱蒼たる森に侍をいざなう。
 城内の、この一帯は首里城発祥の聖地である。聞得大君以下祝女が折々に様々なさいを執り行う。
 首里城には十のうがんじゅがあるが、京の内だけで四の拝所があって、場所によっては男は一切立ち入ることができない。
 月静の背後に従う侍は、そのたおやかな腰つきに魅入られて視線をはずせない。月静の聖性は侍にも直覚できるが、それよりも月静の肉体が誘う。
 その軀の美しさは、夜空を彩る天の川の伸びやかさ、夜空そのものである。生々しい肉としか言い表しようのない軀の内奥に隠された命の不思議を突きつけられ、なんとしても月静の胎内に潜りこみたいという強烈な慾求をもたらす。
 されど強引も暴走も不可能だ。
 力ではこじ開けられぬ秘めたる月静の扉が漠と泛ぶ。後ろ姿でさえ直視を躊躇わせる光輝に覆われつくして、触れてはならぬと侍を抑えつける。
 男の視線を意識しながら、月静は拝所の線香の残り香を胸に充たす。
「木洩れ日がたいそう美しいでしょう」
「まこと、美しい」
 顫え声で答えた侍の眼差しは、木洩れ日ではなく月静に釘付けだ。
 森はいよいよ深くなり、木洩れ日さえもとどかなくなってきた。木々のしんとした香りは、奥深く艶めかしい。
 月静はしっとり生い茂る下生えに横座りした。傍らに座れと顎をしゃくる。侍は月静からやや距離を置いて座した。
「なにを見張っていたのです?」
 いきなり問いかけられた侍は、大きく胸を上下させた。
「正直に答えぬと、ここでむくろとなります」
 侍は半眼にて妄想した。月静の膝で骸になることを。
 月静は目で侍の腰を示した。
「立派な刀ですが、生臭くて、とても汚らしい。けれど反りがなくて見事に長く、じつに男らしい。柄が黒ずんでいるのは、血が染みたからですか?」
 月静は上体を曲げて手をのばし、平然と刀の柄に触れた。軽く握って、手を汚した血、人血を凝視する。
「この刀で幾人、斬りましたか」
「──三人」
「それで、こんなにも血が染みますか。べとべとではありませんか。生臭い」
「血は、噴く。斬る場所にもよるが」
 月静は頷いた。侍の真正面に立った。
「私を斬れますか」
 侍は我に返る。見事な撥条ばねで跳ねあがるように立ちあがると、刀に手をかける。力む。息む。目を剥く。
「抜けぬ!」
 不可解にも刀がさやに固着してしまった。抜けない刀は無駄に長い棒きれである。
「抜いてごらんなさい」
 とたんにすっと抜けた。
 侍は切先を地面に当てぬよう気配りし、下段の構えのような態勢だ。
 月静は血で曇った刀身を一瞥し、口の端だけで笑み、侍の目を覗きこんだ。
「よからぬことを思い巡らしていましたね」
「よからぬこと──」
「斬って、たいとなった私と交わる」
「まさか!」
「血は噴くと言った直後、そう思ったはず」
「拙者に月静様が斬れるとは思わぬが、それでも、もし拙者の思いが遂げられるならば」
「あら、私の名を?」
「月静様御自身が仰有おっしゃっていましたがゆえ」
 月静は侍の腰のあたりに視線を投げた。あきらかに男になっている。男の性の不条理がいわおの硬直として凝固し、四囲を突き抜かんばかりだ。
「刀が二本」
 侍が首をかしげかけ、月静の隠喩に気付いて赤面した。
「どちらの刀で私を斬りますか」
 侍は答えない。俯いて動かない。
 月静は身を寄せる。ばかま越しに男の巖にてのひらを宛てがい、男の耳の奥に息を吹きこむ。命令口調で囁く。
「なにを見張っていたのか、有り体に申せ」
 侍の口が勝手に動く。
「──抜荷。昆布」
「どういうことか?」
「琉球が薩摩に秘して清国に昆布を──」
「私はものを知らぬがゆえ、昆布も見たことがありません。昆布とはそれほどに貴重なものなのですか」
「北の果て、ヶ島の冷たい海にて採れます。気の遠くなるような距離とときをかけて、ここ南の果て琉球にまで運びます」
「南の果て。ここは果てですか」
「言葉の綾でございます」
「かまいません。私にはどうでもよいこと。それどころか真の果てであったら、どれだけよいことか」
 月静は侍の刀に手をのばす。刀身を平然と掴んだ。侍の手から、もぎ取るように刀を奪った。
 刀身を握って重いと顔を顰める月静の指が落ちぬのが不可解で、侍はいよいよ月静に神性を覚えた。
「貴男は隠密の類いでしょう」
 侍の目が泳ぐ。けれど月静に隠し事はできない。幽かに頷いた。
「ふふふ。なんとも図々しいというか、大胆な隠密です。琉球の物見に平然とあがって床几に座って海を見る。そこまで薩摩は琉球を下に見ているのですか」
「まさか!」
 侍は月静に夢中だ。もはや己の役目など、どこかに吹き飛んでしまった。執りなすように声をあげる。
「得体の知れぬ船が湊に出入りしているとの報せがあり──」
 月静は頷いた。すべての昆布の交易は薩摩の息がかかっていると聞いた。密貿易の嫌疑がかかっているらしい。
「船を見張っていたのですね。西のアザナは沖までよく見わたせますが、昆布のやりとりまでは見えぬのでは?」
「昆布そのものではなく、出船入船と人の動きを見て──」
「なるほど。とうべなってしまいましたが、よくわかりませんね。御苦労なことです。抜荷の尻尾を摑みましたか」
「いえ。まったく」
「卑しい薩摩の邪推です」
 決めつけて、月静は頬笑みながら言う。
「薩摩は飢えておりますね。飢えのあまり、見えないものまで見てしまう。度し難い邪推ですが、万が一抜荷の気配を悟ったなら、沈黙を守りなさい」
「されど拙者は──」
 月静は侍の肩を押した。
 侍は大きく揺れ、倒れ込んだ。
 柔らかな下生えが侍の軀を受けとめた。
 月静は、左手で横たわった男の軀に触れていく。
 右手は刀身を握ったままである。侍が苦しげに訴える。
「指が落ちるとは思いませぬが、なにかあったら、その、なんと申しましょうか」
 月静が抜き身を侍の傍らに安置した。
 侍は、なぜか死した己に対する供養のように感じた。
 直観した。
 もう誰も斬れない──。
 男の胸がふいごのように上下する。胸をはだけると、痩せて浮いたあばらの上に思いのほか分厚い筋肉が痙攣気味にあらわれた。
 月静は加減せずに男の乳首をつねり、男の苦悶を見おろし、引き千切る。指を汚した血を舐め、唇を押しあてて男の血を吸う。存分に吸って、顔をあげる。
「私は血で育ちました。けれど人の血を戴くのは初めてです」
 侍の眉間に恍惚の縦皺が刻まれ、抑えても洩れてしまううめきとあえぎが月静の顔をくすぐる。血を吸うあいまに、囁く。
「貴男は額から針の束のような、よくない光を放っていました」
「光──」
「いま、私が吸いとってしまいました。もはや貴男によこしまが這入る余地はありません」
 ふたたび千切りとった乳首のあとに唇をあてる。
「あまり美味しくありません」
 月静の呟きに侍の顔が泣きそうに歪む。
「嘘です。美味しいです。ときどき吸わせてください」
 よろこんで! と男の目が訴える。
 月静は満足げに頷き、それでは御褒美を与えましょうと男の威が凝固した硬直のあたりに手をのばすと、躊躇いなく解放し、そっと触れた。
 ぜた。
 勢いにのった粘りと濁りのある白が、月静の頬を汚した。
「なにもせぬうちから、不調法極まりない」
 月静がとがめると、男は泣きそうになった。
「触れたことも、触れられたことも──」
「女に触れたことも、女から触れられたこともなかったと? 和合を知らずに、ただひたすら人を斬ってきたと?」
「拙者はどうすれば──」
 月静が冷たく言い放つ。
「もはや思いを達したはず。その見苦しいたかぶりをおさめなさい」
「されど、如何ともしがたく」
「おぞましい。放ったのに、きつく強ばったままで巖のごとし。恥を知りなさい」
 月静は言い棄てると、そっと男に軀を重ねた。嫋やかだったのは軀をあずけるまでで、加減せずに迎えいれ、おさめつくす。
 支配する月静は、男の上にある。ゆったり踊る。
 反射のように、ふたたび男は放ち、際限ない。月静のもっとも奥深いあたりを白濁で汚すばかりか、早くも月静の肉体の外にあふれさせるほどである。
 月静は弓がしなるかのように上体を前後させる。先ほどの暴発で頬を汚した男の成れの果てが未練がましくあちこちに散る。
 いつのまにやら月静も男も全裸になり、解き放たれた蛇のように絡みあう。男も月静も際限なく極め、貪る。
 照葉樹の枝々にからすばとが集まってきた。月静と男を見おろし、ウッ、ウッウーと切なげに鳴きはじめる。

次回に続く)

【第一回】  【第二回】  【第三回】  【第四回】
【第五回】

花村萬月 はなむら・まんげつ
1955年東京都生まれ。89年『ゴッド・ブレイス物語』で第2回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。98年『皆月』で第19回吉川英治文学新人賞、「ゲルマニウムの夜」で第119回芥川賞、2017年『日蝕えつきる』で第30回柴田錬三郎賞を受賞。『風転』『虹列車・雛列車』『錏娥哢奼』『帝国』『ヒカリ』『花折』『対になる人』『ハイドロサルファイト・コンク』『姫』『槇ノ原戦記』など著書多数。

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