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マティス展に関する覚え書 ー「メディア・アーティスト」としてのアンリ・マティスについてー

 東京都美術館のマティス展での一番の発見は、アンリ・マティスが間メディア的な作家だったということだ。俗な用語を使えば、「メディア・アーティスト」である。マティスがメディアの性質と差異に感応する人物であったことに、今回の回顧展で気づいた。 

https://www.tobikan.jp/exhibition/2023_matisse.html



 作家の生の時系列に並ぶ回顧展は、その伝説的な側面でなく、今日をなんとなく生きる私たちと地続きな側面を見せる。私はアンリ・マティスという人物について、ほとんど何も知らなかったと言っていい。作品は本や展示で何度も見ているしついでに『ジャズ』の作品柄がプリントされた靴下も持っているが、彼がどのような世界で生きた人物かを意識したことはほとんどなかった。アンリが元々法律家を目指しており、筆を持ったのは20歳頃だったこと(進路の変更は彼の父親を落胆させた)。絵画と同時に多くの彫刻を制作したこと。中年のアンリの顔が宮崎駿に似ていること。そうしてことを時間の流れに合わせて知ると、作品からの感受が変わってくる。今の私たちがそうであるように、多くの他者からの評価を気にする人物だったことも伝わってくる。 

 

駿っぽいマティス


 本展示の大きなポイントは、絵画と彫刻の相補性を示したことにある。彫刻は小さなものから大きなものまで展示されていたが、マティスは彫刻での体験を絵画に活かすというより、完成した彫刻をそのまま絵画に投げ込む大雑把な大胆さを持ち合わせていた。体を深くねじった女性像の彫刻『横たわる裸婦Ⅰ』(1907年)は、静物画「蔦のある静物」(1916年)の中にそっくりそのまま描かれている(今回展示されていない絵画作品だが、『青い裸体(ビスクラへの想い)』(1907年)にも同じ彫刻がそのまま反映されている)。木のスケッチ『樹々』(1921ー1925年)で描かれたフォルムは、『夢』(1935年)のような絵画における女性の身体からも感じ取れる。メディウムの間での移動、トランスフォームを、作品のなかにしばし取り入れていたことがわかる。


『横たわる裸婦Ⅰ』


『蔦のある静物』

 『黄色と青の室内』(1946年)に見られるような色彩と空間配置をズラす方法も、『赤の大きな室内』(1948年)の中に描かれた画中画も、そうした間メディア的試みの中から絵画でできることを見据えた作品だ。彼が何度も描いている窓のモチーフも、二つの別世界をつなぐ間メディア的なものとしてそこに存在している。『金魚鉢のある室内』(1914年)では、鉢が夜空と街灯(あるいは月の光)の色を反射しており、室内において鉢だけが窓の外と通じている。境界(あるいは境界の越境)への敏感さが、その配置から感じ取れる。 


『黄色と青の室内』
『赤の大きな室内』



『金魚鉢のある室内』




 アンリ・マティスのメディア意識の強さは、後年になるとより強調される。よく知られる後年の代表作が二つある。複製印刷が前提とされた切り絵の作品集『ジャズ』(1947年)と、南仏ヴァンスにある『ロザリオ礼拝堂』(1951年)。1869年から1954年を生きたアンリ・マティスの世代は、青春期に映画の誕生に立ち会い、壮年期にラジオとレコードが一般化し、テレヴィジョンの流行の頃に没した世代だ。つまり、メディアの変遷期に、彼の人生はそのままかぶさっている。そして、マティスはそうしたメディアの変化を無視していなかった。作品集に題された『ジャズ』という題名は、音楽ジャンルのイメージだけからとられたものではない。本作が出版された1947年には、ジャズは録音作品として市場に出回っており、翌年にはLPレコードが発売される。即興性を強く押し出したビバップの演奏家たち、チャーリー・パーカーもディジー・ガレスピーもバド・パウエルもすでに録音作を発表していた。即興や生の演奏をエナジーとするはずのジャズという音楽形態があろうことか録音作品として出回っており、そこに確かに魅力があること。マティスは、ジャズ・ミュージックが優れた複製芸術になり得るように、自らの画が複製物として蠱惑的たり得ることを狙った。 


『ジャズ』


(1947年のチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピー)



 対して、ロザリオ礼拝堂は、他のマティスの作品のように美術館の間を移動することはない。もちろん写真や映像で中の様子を確認はできるものの、南仏まで足を運ばなければ、光の変化や室内の気配、あるいは礼拝堂までの道のりを体感することはできない。鑑賞するためにひどくコストのかかる、複製できない作品である。当然ながら、礼拝のための場所は、複製から最も遠い。年老いたマティスは、複製しうる作品と、複製しえない作品の双方の極みを表現したことになる。メディアの変化、メディアの特質に感応していた「メディア・アーティスト」の肖像が浮かぶ。


ロザリオ礼拝堂

 複製できない絵画の素朴さに信を置く作家というイメージが、「フォーヴィズム(野獣派)のリーダー的存在」(wikipedia日本語版からの引用)として知られるマティスにはむしろ強いように思う。というか、私もそのように感じていたところがある。作家が反時代的だった結果、作品が生き残ったのだと。 
 実体は、そうしたイメージとはかけ離れている。今回の回顧展は、彼が時代意識を強く有しており、その意識の元で作品を作ると同時に、作品提示の演出に長けた作家だったという視点を示した。アンリ・マティスは、人々の接するメディアが変わる中で、自分(とその作品)が生き残る方法を考えざるを得ない世代の人間だった。「メディア・アーティスト」であることが彼の戦略だったのだ。この覚え書きで深く記す余裕はないが、マティスの植民地主義的な側面や戦争との関係を考える際にも、彼の間メディア性は無視できないだろう(オリエンタリズムも世界戦争もメディアの発達とは切り離せない)。メディア間の差異と変化を意識せざるを得ないという点で、アンリ・マティスの作品は、今を暮らす私たちの意識と通じている。マティスは素朴な作家でも過去の作家でも歴史的作家でもなく、現代の問題的作家である。



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