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下剋上球『児』ではないけれど(一部再掲)

TBS日曜劇場『下剋上球児』の第1回を見て、最終回までのストーリー予測ができてしまった。この予測を(いい意味で!)裏切るような意外性を期待したい。

以下は、その予測に基づいているので、まったく違う展開になる可能性もありますが、この、

《箸にも棒にもかからない弱いチーム(あるいは、メンバーがほとんどいないチーム)が、ひとりの監督(あるいはキャプテン)を得て強くなり、最後には強豪と対戦し、最終的にこれを撃破する(そこまでいかなくてもいい勝負をする)、というのは映画やマンガの野球モノの定番といえる。
(以下、定番=古いのはご容赦くださいね)

映画ではもちろん、少年野球の『がんばれ!ベアーズ』

そして、オーナーも見放す最弱MLB球団を描く、『メジャーリーグ』

野球マンガでは、有名な水島新司『ドカベン』もこの範疇に入るが、設定がやや特殊なので、ここは、ちばあきお『キャプテン』を推したい。

と書いていたら、自分自身が学生時代に『がんばれ!ベアーズ』のように、あるいは『キャプテン』のように、素人ばかりの友人たちと野球チームを作り、とある大会で優勝したエッセイを再掲したくなってきました。

日曜劇場『下剋上球児』では物語開始時点での野球部員は1人でしたが、我々の場合はゼロからのスタートでした。
(旧稿を再編集+《オジサン》後日談追加)

*****

かつて私自身が仲間を集め、ひと月余りだけ存在した、野球チームの話です。

私が通っていた大学は、入試はざっくり『理工系』で採り、教養2年の秋に、各学生の希望と成績によって専門学科に振り分ける。
1年留年し、成績もパッとしなかった私が不本意ながら振り分けられた学科は、応用物理、建築などの人気学科に行けなかった学生の『掃きだめ』だった。
夢破れた若者が、次の『脱出』機会となる、就職や院試までの2年間を消化するため、仕方なく授業に出ていた。

中には、教養2年を終えるまでに8年を費やし、1浪と合わせその年28歳になるオジサンまでいた。
この《オジサン》は、ほとんどが20歳前後の同級生から完全に浮いており、間もなく専門科目の授業に出なくなったばかりか、試験日ですら顔を見かけなかった。最長12年しか籍をおけないその大学で、3年生の試験をまったく受けに来ない《オジサン》の命運は、風前の灯だった。

学籍番号で私の前の、体格はいいがひどく生気のない学生と話をしているうちに、彼が中学時代、野球部のエースだった事を知った。けれど高校では運動部には属さず、『帰宅部』としてで受験勉強に励み、現役合格したという。
「‥‥それなのに、結局、こんな学科に来ちまってさ。もう、どうでもいいや、って感じ」
名簿上で彼の苗字は誤記されていたため、講義で出席を採るたびに間違った名で呼ばれたが、これも、訂正するわけでもなく、
「はーい」
投げやりに返事していた。
「‥‥どうでもいいや、名前なんて‥‥」

第一志望で学科に来た、というひとりを除き、多くは、《今生》での幸福を諦め、卒業後の《来世》に期待していた。
私自身も、辺りに漂うネガティブな雰囲気が嫌で、徹夜麻雀の翌日は講義に遅れ、ヒッチハイク旅に出ては講義をさぼる、といった日々を過ごしていた。

秋になり、工学部自治会が、学部長杯軟式野球大会を開催する、という通知を連絡板に張り出した。優勝賞品は大瓶ビール2ケースだという。
私は、野球といえば、小学校の頃にクラスのチームで何度か経験がある程度だった。
「ウチの学科でチーム作る、か?」
まったくの思い付きで、学籍番号がふたつ前の友人に声をかけると、
「いいな、それ」
予想外の答えが返ってきた。
「俺、下手だから、ライトで8番 ── ライパチでいいよ」
ちゃっかり自分のポジションと打順まで決めながら。
(おいおい)
しかし、もう後には引けなくなった。

そもそも、私はチームプレイが大嫌いな個人主義の一発屋だった。『仲間と』『自主的に』何かすることなど、高校時代のロックバンドを除き、ほとんどなかった。
(仕方ないな)
やむを得ず、メンバーを集め始めた。

最初に声をかけたのが、例の《どうでもいいや》だった。
「ええ? ── 俺が投げたって、勝てるわけないよ。やってたって言っても、中学だぜ」
予想通り、筋金入りの後ろ向きだった。
「ま、考えといてくれよ」

進学者名簿の自己紹介欄に、中学時代は野球部、と書いた男をもうひとり見つけた。彼はやたら元気で、学生控室でいつも大声をあげているが、何かあるたびに、
「よし、いこか!」
と周りに声をかけることでも知られていた。
彼と話してみると、中学ではキャッチャーだった。
「よし、バッテリーは揃った。あとは人数合わせだ」
《ライパチ》はノー天気にはしゃいだ。
しかし、この《いこか!》リクルートは、チーム構成上、きわめて大きな1歩となった。
なおも参加に後ろ向きな《どうでもいいや》に、
「グラブ持ってグラウンドに来いよ ── お前の球筋、見てやるよ」
と言い放ち、投手魂(?)に火を点けたのである。

《どうでもいいや》が試投を行う日、それまでに声をかけた、過去に多少は体を動かしていたらしいその他数人も、 ── たぶん、その時点では、かなり純粋な野次馬根性で、 ── グラウンドに現れた。
その中には、既に28歳の誕生日が過ぎていた《オジサン》も含まれていた。その頃はほとんどキャンパスで顔を見ない彼がどうして、といぶかしんでいると、
「俺が声かけたんだ」
《ライパチ》が言った。
「ええ?  ── さすがに無理だろ?」
「いや、あいつ、高校時代、野球部でショートだったんだってさ。スゲーだろ?」
(それ……10年も前の話だろ?)
私は思ったが、黙っていた。まだ20年ちょいしか生きていない当時、10年前は太古の昔だった。

《どうでもいいや》《いこか!》相手に緩いキャッチボールから始め、やがては座らせて本格的に投げ始めた。
おおおおお!
《ライパチ》が大げさに叫んだ。
素人にはよくわからないながらも、結構な剛球がキャッチャーミットに唸りを上げ始めた。《いこか!》も、ウン、ウン、 ── てな感じにうなずいている。
「よし、俺らもキャッチボールしようか」
手持ち無沙汰の私たちが軽く体を動かしている間に、《どうでもいいや》の顔つきが変わってきた。コントロールを確かめるためだろう、《いこか!》もミットの位置を少しずつ動かした。

彼女に頼み、Tシャツに黒い布テープで苗字と背番号(麻雀の『イースーチーの筋』)を縫い付けてもらった。
「アルファベットが直線だけで構成される苗字で良かった」
と彼女は言った。

「よし、俺がノックしてやるよ」
投球を終えた《どうでもいいや》は、息を弾ませながら、《いこか!》が持ってきたバットを手にした。
誕生したばかりのバッテリーを除くメンバーが、《どうでもいいや》の打ったゴロを捕球し、《いこか!》に投げ返すルーティーンを3巡ほど終えた時、《オジサン》に対する見方は大きく変わっていた。
よっこらしょ、という感じに中腰で構えた彼は、しかし、華麗なグラブさばきを見せたのである。
「ほら、見ろよ」
《ライパチ》が得意そうに言った。

しかし、困ったことがあった。そこに集まったチームメンバー候補の中で、少なくとも守備では、私が一番下手だったのである。トンネルもあったし、暴投もあった。《ライパチ》は私とほとんど変わらぬ2番目で、それ以外のメンバーとはかなり差があった。
行きがかり上最初の練習日となったその日、集まったのは偶然にも9人だった。私は、スカウト活動をそこで止めることにした。

── ゼロからメンバーを集め、チームを作る:ここまでがドラマだった、と今でも思う。
しかし、話は最後まで続けよう。

右利きだが、一塁に近い左打席で打つことにした。これが、けっこう当たる。

初戦が始まるまで3週間ほどの間に、私たちは何度も集まって練習した。
私も含めてだが、吹き溜まりに吹き寄せられた身の不運を嘆きつつ授業をさぼる学生たちが、にわか野球部の練習には、休まず出てくるのである。
《オジサン》などは、練習に来る『ついでに』、授業にまで顔を出すようになった。
学生控室に立ち寄ると、いつもメンバーが集まってきた。
カントク、建築にすげえピッチャーがいるらしいぜ」
カントク、応化も母集団が大きいから手ごわそうだってさ」
他の学生は、相変わらず冷ややかだった。
(吹き溜まりで張り切っても ── ねえ)
そんな雰囲気だった。

学部長杯が始まった。

私は、元エースを3番に、元捕手を4番に据えた。5番打者には、思い切って10年前の元ショートを抜擢した。
《ライパチ》には希望通りライトで8番を任せ、《カントク》の私はレフトで9番だった。センターに足の速い男を配置し、あとは左右外野にボールが飛んで来ないことを、ただ祈った。

私たちのチームは、ワンマンチームならぬ、かなり徹底したツーマンチームで、守っては黄金のバッテリーが次々と相手を三振に斬って取り、たまに出塁したランナーをどちらかが牽制けんせいで刺した。
打っては3、4番がヒットで出ては二盗、三盗、あげくはホームスチールまでして点をもぎ取るのである。5番の《オジサン》も、バッティング自体は悪くなかったが、走ると息が上がり、しばしば走塁死した。
《カントク》は一応、三塁コーチャーズボックスに立っていたが、もちろん、ただ立っていただけだった。

1、2回戦を勝ち進むと、傍観していた他の学生たちが応援に来るようになった。俺は実は高校でサードやってたんだ、などという入部売り込みもあった(もちろん、丁重に断った)。
勢いというのは恐ろしいもので、準決勝はインカレ出場した陸上やり投げ選手がピッチャーを務める強豪・都市工だったが、剛速球をよく選んで出塁し、盗塁でかき回す、という作戦で、かろうじて勝利を挙げた。

決勝は対応化戦だった。
当時の応用化学科は、公害問題の反動から、進学振り分けでは、我々の学科と1、2を争う『吹き溜まり』だった。
吹き溜まりで寒風に舞う学生同士の決勝戦にはなかなか感慨深いものがあったが、私たちは容赦無く応化チームを打ち破り、優勝を決めた。

試合後、《カントク》の身体は宙を舞った。それまで体育会系とは縁遠い人生を送っていた私にとって、最初で最後の経験だった。

(たぶん)彼女が撮ってくれた、感動の1枚

以下、初出時には書いていない後日談:

練習に来るついでに授業に顔を出すようになった《オジサン》だが、その年は時既に遅く留年した。けれどその後は野球チームのメンバーのサポートもあり、無事に単位を取っていった。
《オジサン》は結局、トータルで11年大学に籍を置き、30歳で卒業した。
人の運不運とはわからないもので、私たちの学年が学部を卒業した時、まだオイルショック以来続いていた不況のため、就職市場はあまり良くなかった。
しかし翌年、景気が上を向き、状況は大きく変わった。
新卒なのに30歳、という《オジサン》も、大手の金属加工メーカーに採用された。3年生で留年せず29歳で卒業していたら、おそらくあり得ない『幸運』だったろう。

しかし、again、人生は結局、最後までわからない。

就職後2年も経たないうちに《オジサン》が亡くなった、という話を、卒業後も彼と連絡を取っていた《ライパチ》から聞いた。
バリバリの22-23歳と肩を並べ新卒社員として大手に入社したのが《オジサン》にとって本当に良かったのかどうか ── それは誰にもわからない。

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