見出し画像

有終の美を飾るに至らなかった「Dark Phoenix」という作品について考える

映画を鑑賞し終えて、とてもやりきれない気持ちに襲われた。

「これがX-MENシリーズの最終作なのか.....」と。

X-MENシリーズは、設定に矛盾が多かったり、作品同士の繋がりが見えにくかったりなど、基本的に混沌としている映画であることは理解していた。そもそも、フューチャー&パストで、それまでの旧作品の内容がなかったものになってしまった時は、唖然とした(ファーストジェネレーションの内容が残ってくれたことが唯一の救いだ)。

それでも「映画としての面白さ」は十分にあり、フューチャー&パストもアポカリプスも、個人的には満足はしていた。特に、アポカリプスの終盤で、瀕死の状態のチャールズがモイラ(初代X-MENのメンバーで、CIAの女性)の記憶を復活させ、モイラが涙を流すシーンは、本当に感銘を受けた。過去に、モイラが「チャールズの腰を撃ってしまったこと」や「チャールズが自分の恋人であったこと」といった、ファーストジェネレーションでの記憶が彼女の中に一気に蘇ったのだ。このシーンは、これまで蓄積されたX-MENシリーズの内容がいかされていることを直に感じることができ、ファンとしては非常にありがたかった。

その感動のシーンがこちら👇👇

この「記憶を戻すシーン」を観た後に、以下のシーンを見ると、非常に面白い

👆 久しぶりのモイラとの再会(本人は記憶がないので知らない)に感銘を受けたと思いきや、本来は自分が夫なはずなのに別の男性と結婚して子どもまで授かっているモイラの現状に落胆するチャールズ。

その前作のアポカリプスを終えての、今回のダークフェニックスだ。以下、やりきれない気持ちになった理由を、細かく見ていく。

作品内にはびこる「3つの問題点」

1. ジーンを学校に招待する経緯が変わりすぎてる問題

ファイナルディシジョン(設定:2000年)で、それの20年前(つまり1980年)に、マグニートーとチャールズがジーンの家に訪れ、学校への入学案内を試みる。しかも、この時両親は生きており、娘がミュータントであることを気にかけていた(既知であった)。フューチャー&パストで、ウルヴァリンが1973年に戻り、歴史を変えたので、その後のジーンとの出会いの設定が変わるのは、まあ不思議ではない。そして今回のダークフェニックスでは、1975年に、ジーンが自らの力で運転中の母親を気絶させてしまい、母親は事故死してしまう。その後、チャールズ(マグニートーは同行せず)が、父親の生存を隠して、病院でジーンの引き取りを依頼する。そして、ジーンのトラウマを全て壁で隠してしまう。

ファイナルディシジョンでの、ジーンを学校に招待するシーン。まず、チャールズが歩いているという時点で、意味がわからないが、それに関しては、ここでは割愛する。

ダークフェニックスでは、明らかに「ジーンが主役の映画ですよ」と言わんばかりに、ジーンを学校に入学させるまでの背景にストーリー性が足されている(劇中の、ダークフェニックス化を引き起こす現象へのロジックを整えるためかと思われる)。

2. ジーンの死ぬ過程が、ファイナルディシジョンとパターン似ててあんまり新鮮味ない問題

ファイナルディシジョンでは、
①ジーンのフェニックスの能力が覚醒してしまう
②なんとかしないとヤバい
③ウルヴァリンが殺す

ダークフェニックスでは、
①ジーンのフェニックスの能力が覚醒してしまう
②なんとかしないとヤバい
③自分で死ぬ

画像1

リブート作品だから、仕方のないことかもしれない。だが、最終作としてここまでストーリーが想定できてしまうのは、非常に寂しい。ファンタスティック・フォーのリブート作品でさえ、結構ストーリーに変化があったのに......

3. ウルヴァリンによる歴史改変後の未来(2023年)で復活してるジーンが何故かダークフェニックスで死ぬ問題

ダークフェニックスは、歴史改変後のストーリーなので、改変後の2023年(フューチャー)のストーリーに繋がってなければいけない。もしそうであれば、ジーンは基本的に死なない。だが、ダークフェニックスではジーンは死ぬ。と考えると、フューチャー&パストとダークフェニックスは、独立した映画なのか?と言わざるをえない(少なくとも、フューチャー&パストの部分に関しては、アポカリプスも含めてロジックは通ってはいるが)。

画像2

ただ、この問題に関しては、最後に「フェニックスとして空を飛ぶシーン」があったので、「実はジーンは死んでないけど、メンバー達はジーンは死んだと思って間違って墓を作った」という仮説が立ち、辻褄が合うかもしれない。

ちなみに、ネットで見つけた以下の画像が、時系列を見る上で非常に参考になる。

画像3

「シリーズ/単体」の両方の視点における今作品について

凶悪のヴィランが出てこない今作品で、ジーンという人物に焦点を当てて全体が構成されているので、ローガンや、それこそ直近のスパイダーマン ファーフロムホームといった作品と、立ち位置的には近いものがある。ただ、上記の2作品はそれぞれ個性があるのに対して、ダークフェニックスはこれといって、ない。以下、各作品の特徴について触れてみる。

ローガン: チャールズとウルヴァリンという、x-menにおいて最重要な2人の悲惨な結末を、圧倒的な悲壮感漂う描写と共に作品が構成されていて、とても感情移入してしまう。
ファーフロムホーム: スタークの死を通して、心身ともに衰退しきったパーカーの復活劇と共に、豊富な笑いの要素や、MJとの良い感じのラブストーリーも入っていて、ありきたりではあるが、「純粋に楽しめる」構成となっている。
ダークフェニックス: まず1975年のジーンと出会うシーンで、「え?」と首をかしげることから鑑賞が始まり、「まあジーンの力が暴走してしまい、やばくなって、最終的にチャールズあたりが制御する結末なのかなー」と予想したら、だいたいそのような感じで事が進んだ。結末こそ違ったが、ローガンほどの悲壮感があった訳でもなければ、ファーフロムホームのようなコメディ要素や恋愛要素があった訳でもない。

終わりに

「ローガン」という作品を先に観せられてるせいで、あまりにも「最後のX-MEN」という名にふさわしくない感じが際立っているように感じられた。もはや、フューチャー&パストとアポカリプスを観ない方が、単体作品としてのダークフェニックスを楽しめる。

MCUであれだけ「全作品のストーリー」が綿密にリンクしているからこそ、ダークフェニックスでは過去作品からの連続性があまりにも破綻して、つまらなく感じたのかもしれない。

だが、制作側も、様々な事情を加味した上での、今作品の構成だったと思う。作る側であれば、良いものを観客に届けたいに決まっている。しかし、ビジネスである以上、妥協せざるを得ない点もあったに違いない。

ありがとう、X-MEN。さようなら、X-MEN。

画像4

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?