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かげおくり


多摩川の向こうの灰色の都市は、よそよそしく砦を築いている。
ビル群のスカイラインから湧き立つ雲は次第に橙色を帯び、煙が匂ってくる。
私はひとりで散歩している。
イヤホンから鳴るラヴェルの緻密な和音は、孤高の景色を彩る。
青い空の奥から橙色が染み出している。
こんな色のジュースをどこかで見たことがある。
草むらに花火の残骸を見つけて、会わなくなって久しい人のことを思い出した。
もし今、空が同じ色をしていたら、あの人は何と言うだろうか。
ぎゅうぎゅうに人を詰め込んだJRが向こう岸へ駆けてゆく。
イヤホンを突き抜ける轟音で私はあの人の顔を一瞬忘れた。
多分あの人も私を忘れたかもしれない。
カラスが寝床へ帰っている。
いつ帰ろうか、と思いながらまだまだ歩いている。
私は昔から、こうしてひとりで歩くのが好きだ。

こんな暑い日は、雪が降らないかな、と思う。

昔、神様はいると思っていた。
サンタクロースもいると思っていた。
鬼だっていると思っていた。
なんて優しい嘘だろうか。
本当は、神様なんていないのである。
それに、よく分からない外国語の手紙をイブの夜に書き残したのは、父だった。
それに、鬼が可哀想だからと言って、寒い雪の夜に鬼を外に追い出さなかったのは、母だった。
本当に、神様はもういないのだった。

この街は冬でさえも雪があまり降らないことを思い出した。

あー、嫌だ。
仕事の連絡は寄越さないでほしい。
この人に空虚なテキストを返す努力が、一体何に成るというのだろうか。
腰と心臓を痛めて手にした紙切れが、一体何を示すというのだろうか。
もうこんなことやめだ。
私に与えるものはないのだし、困らない。

直射日光に照らながらあてもなく歩く私から伸びる影は、まるで大人のかたちをしている。
自身のかたちを眺めてから、ビル群の真上の空を見上げると、そこには白い大きな私がいる。
しかしなんだか向こう岸の都市には相応しくないように思える。
何か不足している気がする。
何か大事なものを忘れてきた気がする。
私の左半分が、橙に熱くなってきた。
線香花火、トロピカルジュース、
あ、あの人。
今すぐ取りに戻らなければならない、と思った。
陽が落ちてきた。
急いで帰らなければ。

夕日が燃えはじめた。
いよいよ時間がない。
陽炎に溶けたこの身が、蝉の声に蒸発し、私は境目を失ってゆく。
世界はどんどん橙色を強め、向こう岸のビル群に反射した橙の光が、私を貫いた。
このまま、皮膚から骨の髄まで、この橙に染められるかもしれない。
今すぐ戻らなくてはならないのに。
私が、私が、だんだん居なくなる。
忘れられ、忘れてゆく。
滲んだ、オレンジ、溢れた。
もう間に合わない。
先に忘れたのは、私だ。
さようなら、少年、青年、
神様
瞼の裏にこびりついた大きな人がしつこく、
まばたきする度に、空に現れ、現れ、
消そうとしても、消えてくれない
あー、そんな
あいつは、あいつも、いつか、
必ず誰かの神様になり、与えて、与えて、
愛するものだけの秘密の記憶を
遺して去るに違いない
お前を満たすものは、
たったそれしかない
それを幸福と呼び
去る日が来るに
違いない

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