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コーチングNote【育むとは? やさしさとは? 指導者とは?】

ちょっと話題の記事があり、興味深かったのでキャリアの続編より先にこちらをアップしてしまいます。

☆「向き合う」という視点

ちょうど二か月ちょい前くらい。中学生、高校生が中心となる語りの「場」で、大人がさらけ出しをしていったときのこと。その大人のリアルを受け止めた10代達がリアルな言葉を伝えてくれました。ちょうど、このテーマに合うと思いますので、まずはご紹介したいと思います。内容としては、
 
【昔の体罰とか暴力とかはいけないことなんだと思う。でも、一方で「うらやましい」と感じる自分もいました。今まで自分、自分達に向き合ってくれるそんな先生がいなかったから。確かに叩かれたりしたら嫌だと思うんです。でも、本気で向き合ってほしい。そんな関係の誰かが自分にもいたらと思ってしまうんです・】
 
ということ。子供たちは概ね同じような気持ちを抱えていたようで、参加していた中学の先生は、何か深く刺さったように姿勢を変えられていました。

そして、このイチロー選手に関する記事から何をイメージし、何を思うのか。

☆ファクト的な視点

図解・オリンピックメダル数の推移より

人口減少。特に子供世代の数が減少一途の中で、新しい世代達は文武で過去の世代を凌駕していっています。勝利至上主義で体罰も何のそのという時代に比べて多くのスポーツカテゴリーが「世界で戦える」チーム、選手達を生み出し続けています。特に2000年代からは女性活躍が目覚ましいですね。
 
僕が水球をやっていた1980年代の頃に「日本人はDNAレベルで無理」とすら多くの競技指導者達が言っていた陸上短距離、水泳、アルペンスキー、サッカー、バスケット、フィギュアスケート等々、多くの競技が今ではメダル候補、オリンピック決勝に残れる選手を抱えています。日本の場合、エリートだけを選別して特別に育てているような事実はありませんので、一定層の競技人口からこうした人材が花開いていっていると言えるでしょう。

☆指導者に求められるもの

さて、僕の大先輩であるコーチの方は、さる競技のオリンピアンと初めて対面したその場で「メンタルコーチとして共に世界を狙う」覚悟を問われたそうです。
 
こうした覚悟や自律においては無論トップアスリートならではの要求、そのレベルはあったと思います。けれど、先に触れた中学生たちもそうであるように、成長に対して「向き合う覚悟」を問われているのは、常に大人、指導者側なのです。
 
つまり、体罰なしで、言行一致の態度や相手をリスペクトしている姿勢。コミュニケーションのレベル、伴走者として気づき、忌憚のないフィードバックとトライを重ねていける状態をつくるスキル。こうした本来、パートナーとして大人(指導者)側に必要とされるレベルが一気に上がっている。それが、全世代的全国的に起きている・かなと僕は読み解いています。

☆「酷」とは?

そのうえで僕がバズったこの「酷」という表現をあえて紐解くのであれば、指導者(リーダー)達が責任を負わず、部下や子どもたちの成長する機会を損なっていること。その状態がイチローが語る本質の「酷」なのではないかと。
 
例えば、体育会系の Team Box によるカタパルト型の伴走では「成長痛」という言葉は日常的に使われています。遠慮のないフィードバック。今までの安全地帯を踏み越えていくアンラーン。その先にある限界突破(ブレイクスルー)へと伴走をしていきます。大前提である「心理的安全性」が確保されていることはいうまでもありませんが、指導者としてこの「成長」にコミット出来ないのであれば、それは伴走者としてむしろ課題、問題なのです。

乗り越えた先に「成長」を実感し、体験が経験へと昇華する瞬間がある。その時をわかっていながら、ちょっと尻を叩くこともためらってしまう。指導者としての責任、その職への向き合い方。あるいは相手を勇気づけていく関わり方のスキル。これらが総合的に問われているところだと思います。
 
もちろん、外部環境。親の思い込みや無責任な第三者によるプレッシャーはあるでしょう。けれど、そこともコミュニケーションをとって解決していく。以前にお話をお伺いしたサッカー、ボトムアップ理論の畑先生は「入部した一年生のご両親に目的と方法とコンセプトを理解してもらうことに最も時間を割いている」と話されていたようにも記憶していますが、多様な関りへのコミュニケーションも仕事のうちになってきたと受け止めましょう。

昔のように「預けたからには文句は言わぬ」という前提の文化だったら楽であったかもしれません。しかし、その文化は多くの子どもたちの心身を傷つけた温床にもなりました。だから「今」があります。
 
そういう様々な意味をひっくるめての「責任」。Z世代から見てこの手本となる大人でいられるかどうか。そこは、大人として挑戦しがいのあるテーマなのではないか。そう僕は考えています。
 
ですので、僕の中では「やさしさ」と「厳しさ」は対立するものではないのです。もし、無責任な自分を隠すための「やさしさ」を装っているのであれば、それは既に相手から見抜かれていることでしょう。そんなものは、本当の意味での「やさしさ」とは呼べないのです。
 
また弱さを受け入れず、逃げる理由の為に「厳しさ」を拒否するのであれば、それもまた自己の「責任」なのです。その人に時間やエネルギーを費やすよりも、自立し、向上しようとする人へ時間やエネルギーを投資する。それが、全体としても最適であり、幸福度も生産性もあがる。その理解もまた必要な事なのでしょう。


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