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震災の教訓とタンス・イン・ザ・ダーク

わずか10秒の揺れで世界が変わった

震災のときはマイナンバーカードを持って避難してください、と言った人がいるらしい。

前後関係や真意はよくわからないが、能登半島地震の被災者に向けて、所在確認にも使えるのでタンスに入れておくのではなく財布の中に入れて一緒に避難してください、と。「デジタル時代のパスポートとして平時の便利だけでなく有事の安心にもつながる」ということらしいが、要はもっと普及すれば災害時も役に立つということを言いたいのだろう。

震災時のタンスと聞いて阪神淡路大震災のときのオカンを思い出した。

6434人の死者を出した災厄から28年目となる今年1月17日、小松左京が震災について記録した記事を目にした(小松左京ライブラリのXで告知された「たった十秒のできごと」)。
あの激しい揺れが10秒間だったとはにわかには信じがたいという書き出し。同感だ。

当時の私は淡路島の高校一年生。家の2階で寝ていた5時46分。「こんな時間にダンプカー?」と思うほど不気味な地響きのあと、体が宙に浮くほどの強い突き上げがあり、洗濯機の中にいるような凄まじい揺れが続いた。縦揺れとか横揺れではない。家ごと激しくグルグルと回る。立って逃げることなど絶対にできない。

あとから漁に出ていた漁師に聞いた話だが、地震の瞬間、神戸の街の灯りは一斉に消え、空は紫色に光っていたという。数日前から見たこともないような魚が荷捌きに水揚げされていたとも聞いた。

激しい揺れの間、布団の上にいろいろな物が落ちてくるが、それが何かを確認する余裕はなかった。タンスが躍る。床が軋む。二階が抜け落ちるかもと思った。死ぬかもしれない。ずっと叫び声とも言えないうめき声をあげていた。

数分にも感じた揺れが収まると、父親が助けにきた。引き戸のドアを開けようとしてくれるもののなかなか開かない。何度か引っ張り、わずかに開いた隙間から何とか廊下に這い出た。瓦葺(かわらぶき)の屋根から落ちてきたのか、床が砂でざらざらしていた。

立ち上がると親の寝室から念仏のような声が聞こえてきた。「つうちょう、つうちょう。つうちょう、つうちょう」。必死の形相でタンスの中から通帳を探す母親だった。一瞬、鬼に見えた。

避難したあと「我が子よりも通帳なんか」と突っ込んだら、「あんたは、お父ちゃんが助けに行ってから。あんま言わんといて」と苦笑いしていた。夜叉の形相からいつもの愛らしい笑顔に戻ってはいたが、母親の強さは15歳の脳裏に深く刻まれた。

タンスの中から高速で通帳をまさぐる姿は今もはっきり思い出せる。

あのときの母がはたしてマイナンバーカードを探すだろうか。

自らも被災した新聞記者たちの奮闘

ちなみに私がマスコミの仕事をしたいと思ったのは、
震災のあった1995年に出された『神戸新聞の100日』という本に出合ったからだ。

本社ビルも印刷所も激しく損壊したなか、どうやってあの地震当日に夕刊を発行できたのか。
自らも被災者である神戸新聞の記者たちが家族を置いて、瓦礫の中で何を伝えようとしたのか。
ジャーナリズムの気高さに圧倒され、この世界に入りたいと思った一冊だ。

兵庫県に行ったときはぜひ神戸新聞を読んで欲しい。
地域への愛情と足で築いた情報網。記者の矜持が感じられる稀有な新聞だと思う。
大好きな新聞だ。

改めて小松左京の記事を読めば記録することの重要性が身に沁みる。
『神戸新聞の100日』は大災害に見舞われた地域や困難に陥った国民を救うことができない「日本型システム」の問題もあぶり出す。

復興には長い時間がかかる。元に戻らないものもある。復旧は急ぐべきだが、復興は地域住民とともにあらねばならない。しかし、住めば都。時間がかかると避難先で定住する人も出てくる。

祖父母が住んでいた神戸の長田区は4759棟が全焼し焼け野原となった。再開発で刷新ともいうべき整備がなされたが「復興災害」「惨事便乗」と指摘する声もある。

能登半島においては過去の教訓が生かされることを願います。

文/アワジマン
迷える編集者。淡路島生まれ。陸(おか)サーファー歴23年のベテラン。

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