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「面倒な人」とどう付き合うべきか? 止まらない出版界のモラル低下

作家・佐山一郎さんと出版の未来を語るシリーズ。さまざまなハラスメント問題が日々取りざたされていますが、出版界も例外ではありません。むしろ、厄介な人ほど才能がほとばしっていることも珍しくなく、編集者は難しいかじ取りを迫られるといわれてきました。

「狂気と才能は紙一重」で済ませて良いのか?

政財界はいつもながらのことですが、出版界のモラル低下が止まりません。
天才と狂気は紙一重。問題の人と付き合う編集者はそれなりの苦労を強いられます。
「面倒な人」とどう付き合うかは、編集者であれば誰もが抱えているテーマなので、ここは経験豊富な先輩の出番ということで……。
 
──佐山さんは、最近とくに顕著なモラル崩壊をどう考えていますか。
 
佐山 「好悪、功罪はさておき、業績は立派ですよ」というあたりが困りものですね。「流儀」という便利な言葉や「英雄色を好む」で済まされる時代ではなくなったということでしょう。ひと昔前までは、新入の編集者が「作家先生たちは皆一様に異常性格者。心して付き合え」と叩き込まれたくらいで、いびつな個性を「異常」「非常識」と思わずにありがたがることさえ出来た。でも今は、文化英雄の本性が無自覚な資格意識でしかなかったとバレてしまった。それを必死に守ろうとして発動するのがミソジニー(女性蔑視)やパターナリズム(父権的温情主義)というのがお決まりのパターンですね。差していた後光が弱まるのに時間がかかったのは、メジャー誌(紙)に作家たちが守られてきたからです。
 
──千回どころか万単位のグルーミングで、戦後最大の性犯罪者と言われるようになったジャニー喜多川の連続性加害問題もそうですが、映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインの数十年に及ぶセクシャル・ハラスメントで火がつきました。世界多発的ないわゆる#ミートゥ運動がきっかけになっています。日本の文学界では、文芸評論家の渡部直己元早大大学院教授(当時)のセクハラ告発を受けて『プレジデントオンライン』に大筋で事実を認めたのが2018年6月。今年4月6日に東京地裁が渡部元教授と大学側に賠償を命じたことはNHKでも報じられました。
 
佐山 色々知る上で今年1月に出た『対抗言論』(法政大学出版)第3号は必読です。自慢にもなりませんが、20数冊ある彼の単著の3冊目『現代口語教室 ~発情するポップヒーローたち~』(河出書房新社/84年)はわたしが雑誌連載を担当しました。というか、それをご存じだからこそのお題なのではないかと。それでまず気になったのが「教え子」という言葉がいまだにNHKの報道でまかり通っていることです。肌の黒いスポーツ選手を見て「身体能力」を言い出すのに似ています。
 
──たしかに小学生や中学生なら「教え子」でもOKです。だけど研究と学び合いの場であるべき大学で「教え子」はないし、驕りでしかないですね。そんな環境なら、問題になった「卒業したらおれの女にしてやる」発言が出てきてもおかしくないです。
 
佐山 「履修生」や「学生(さん)」でいいと思うけど、自分の通った大学では、教員への「さん」付けが主流でした。教員側もなるべく学生を「さん」で呼ぼうとしていた。学生の呼び捨てが当たり前だったのはバンカラ系で、大学によって違ってたらしい。
 
──『対抗言論』の特集では、教員の表裏を見た履修生が書いたり語ったりしていて貴重です。最初に目を引いたのは、韻踏み夫<渡部直己の「弟子」としての体験を書き記す>で、次に読んだ杉田俊介<渡部直己『子規的病牀(しょう)批評序説』書評>からは渡部氏ががん治療中であることを知りました。それから被害の当事者である深沢レナ×安西彩乃×関優花、三氏への川口好美によるインタビュー<言葉を取り戻すために 加害と被害、ハラスメントと裁判、そして連帯をめぐって>──を引き込まれるように読みました。
 
佐山 彼はわたしより一歳年上で、40年ぐらい前は「直己さん」と呼んでいました。総合誌で Jリーグについての対談をしたのが最後で、もう30年以上顔を合わせていません。彼の文学的盟友ということになっている蓮實重彥さんと「プロ野球批評宣言」を仕掛けた頃、安原顯さんたちと組んでセコンド役を務めた時代がありました。セコンド役の割には安原さんも自分もリングに上がりたがるほう、つまりは書きたがるほうで、両方やることに抵抗がなかった。編集者と猫はいつどこで死んだか分からないという言い方が当時まだあって、そんなのおかしいと反発していたことは確かです。
 
──その安原さんも生前、村上春樹さんの生原稿を売り飛ばして、亡くなった2003年に大きな騒ぎになりました。
 
佐山 今年4月には、猪瀬直樹参議院議員(日本維新の会)が国会でガムを噛んでいて厳重注意を受けました。しかも場所が参議院憲法審査会。女性スキャンダルが出た時も文春の女性記者がしつこくて双方に辟易したことがあります。言われたらまずいことを深い付き合いをしたセコンドですから当然いくつも、否、いくつかは(笑)、知っています。渡部直己氏について言えば、野球やサッカーについての文章がアップデートされていかないことに呆れて早い時期から距離を置くようになりました。調子に乗らせたのは朝日の担当者たちです。忠告してあげればよかったんだけど、こちらもスポーツライティングをしている立場だから、ライバル意識があったのかもしれない。割と売れたらしい『私学的、あまりに私学的な』(ひつじ書房/2010年)の段階にあっても、83年に流出の仲介をしてあげたNHKの(言い換え)放送用語集をまだネタにしていて驚きました。エリート軍人の子が文人になろうとして最後の最後で失敗したというのが今の認識です。他人に厳しく自分に甘い自己愛炸裂のこの両者がいけないのは、後継世代に畏怖を覚えていない、その一点に尽きると思います。その程度のことでなんでと心外に思っているはずでしょうけどね。
 90年代の前半に伊藤公雄さんを中心とした「男性学」研究が成果を挙げ始めて関西までインタビューに行ったことがあります。前世紀の時点ですでに旧態依然の「男らしさ」を打破することは当然のことと思っていたから、縁ある人たちの不祥事についてはひたすらもう驚くばかりというか……。

モラル崩壊の先にあるもの

──ハラスメント(嫌がらせ)や差別問題の場合は、気づかないでいた周囲の人たちにも責任が生じますね。
 
佐山 盗用・剽窃問題もややこしいです。連合赤軍事件をテーマに書いた立松和平の連載小説「光の雨」(93年)は、坂口弘『あさま山荘1972』からの無断引用でした。それを受けて直後に『すばる』誌上で坂口氏宛の手紙を公開したら、立松には弁解しない潔さがあるみたいな話にすり替えられた(笑)。その後彼は『ドロップアウト』(ビレッジセンター出版局)という著書でこう書いています。「私にとって作家とは、社会の良識ではなく、人には話せぬ妄想や破壊行動をもてあまして自ら苦しんでいる、邪悪な存在なのだ。万が一、社会的な役割を与えられても、それに破壊を持ってしかこたえられないような存在だ」(「新世代の文学は空虚か」)とずいぶん威勢の良いことを言っています。彼は盗作事件を08年にも起こしています。
 
──それは知りませんでした。昨年末亡くなった佐野眞一氏の場合は、盗用と部落差別(『週刊朝日』2012年10月26日号連載記事「ハシシタ・奴の本性」問題)の両方に及んでいてすごいです。
 
佐山 あんなに厭なからみ酒の人はいないという位の印象しかないけど、今年1月には盛大な「お別れの会」が開かれています。この機会に、2014年にわたしが書いたアラーキー(荒木経惟)インタビューを再読したけど、やっぱり世代的な無自覚は消しようもない印象でした。今ならとても載せられない発言が10年近く前ならやれたということで驚きを禁じ得なかった。ダンサーのKaoRiさんにセクハラ告発をされて世界的な反響を引き起こしたのが2018年。それ以前それ以後にも FacebookやInstagramで美術家・モデルの湯沢薫さんとモデル・女優の水原希子さんにセクハラとパワハラを公にされてしまっています。でもジェンダー差別もさることながら、過剰な正しさだけになりがちのPC(ポリティカル・コレクトネス)についても考えを詰めないといけないですね。「レッテル貼り」をやたらと連発した安倍晋三以来、言葉狩りが進んで「死の商人」にまで矛先が向かっている。そのあたり、逆にどうですか、現役バリバリの世代としては。
 
──平等を求めてのことが、表現の自由を窮屈なものにする面は確かにあります。無関心と沈黙がいけないのはよく分かっているのですが。かつて中島らもが「笑いは差別だ」と言っていましたが、こういう時代だからこそメディアには先鋒となってオフサイドラインぎりぎりを攻めていく気概が求められそうです。難しいことですけど。発信の手段が増えたことで悪事が明るみに出るようになったのは良いことですよね。
 
佐山 最近自分のfacebookでも発信したけど、自分自身も男性小学校担任による性被害者なんですよ。 

──初めて聞きました…。
 
佐山 60年代前半の厭な記憶がジャニー喜多川の一件で蘇って、それこそ深沢レナさんの言を借りれば、白魔術で対抗するしかないわけです。T山と敢えて匿名化したのは、珍しい名字だからです。寿命が伸びた上に、バイセクシャルで子孫がいたことだけは確かなので。しかしこの件での心的外傷や二次被害がなければ、ふっと個別関係維持の方向に走っていたかもしれない。「直己さん、お見舞いと激励も兼ねて、久闊を叙したいです」という風に。まあだけど、早稲田大学文化構想学部なんてとこにはもう行かないのが一番。そう言っておかないとマンモス大学のワセダ教信者たちは目を覚まさないでしょう。

渡部元教授を連想させると言われているカバーイラスト。
『Hello good-bye 筒井康隆』(弥生書房・84年)
に始まる 積年のうらみが起爆剤に?
1990年刊

 ──深沢レナさんも大学の対応に深く失望していますね。問題の根底にあるのは何でしょう。
 
佐山 世代論に流れるより「世間」を考えた方がいいです。95年に阿部謹也(1935~ 2006)というドイツ・ヨーロッパ中世史の学者が『「世間」とは何か』(講談社現代新書)で、個の粒が立たない日本社会を批判して大変な話題を呼びました。ウェブ日本世間学会というのもあるから、見て頂きたいんだけど、日本型公共性の脆弱さはむしろ大学にこそ顕著だと思っています。先輩後輩、師弟関係の問題はむろんのこと、それこそ渡部直己元教授の関心領域でもあった被差別部落問題に至るまでのカギとなるのが「世間」という存在なんです。一連の阿部謹也著作でよく覚えているのが、勇気を与え、やる気を起こさせる優れた教員はダメ学生でも識別が可能と言っていたことです。教員を評価するのは学生しかいない、学生の評価をもっと尊重せよと言っていました。学生側もただ改革を待ってるだけでは何も変えられません。忖度なんて言葉にこれ以上息を吹き込んではいけないんです。対話の際は、敬称面でのしがらみを断ち切って、堂々と年長者にも「──さん、あなたは」で聞いたらいい。合言葉は「勝ちとる」です。個人個人の気概なしに恩知らずシステムの民主主義は成り立ちません。日本で本格的なノンフィクション作品が生まれにくいのは、民主主義の劣化にもその一因があるはずです。

 長くなるのでもうやめますが、心を惹きつけて離さないモラリストは誰かと聞かれた時にすぐ名前が出てくるのはカズオ・イシグロです。ノーベル文学賞記念講演『特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスルー』(土屋政雄訳/早川書房・2018年)をこの頃よく読みます。なぜだかは分からないけど、老いてもなお、あの本の最終箇所ほど励まされるものはありません。要は、楽観的であってならぬ理由などどこにもないんだということです。以下に抜粋させてもらいます。
 
「……私は投げ出さず、最善を尽くさなければならないでしょう。なぜなら、文学は重要であると──この困難な地平を渡っていくためにはいっそう重要であると──私は信じているからです。若い世代の作家が頼りです。若い人たちが私たちに閃きを与え、導いてくれることを願っています。これは彼らの時代です。来るべき世界について、私にはない知識と本能を備えています。(中略)よい作品を書き、よい作品を読むことで、障壁が打ち破られます。その過程で新しい思想が現れ、スケールの大きな人道的構想が練られて、私たちの結集を促すかもしれません」

文/佐山一郎(さやま・いちろう)
作家・編集者。1953 年 東京生まれ。成蹊大学文学部文化学科卒業。オリコンのチャートエディター、『スタジオボイス』編集長を経てフリーに。2014年よりサッカー本大賞選考委員。直近の仕事に、谷口ジローコレクション29 『シートン 旅するナチュラリスト 第4章 タラク山の熊王(モナーク)』(双葉社)別冊小冊子『「紙」が語ること──谷口ジローの世界」所載エッセイ「清瀬のあとに」、『文春オンライン』「文春野球コラム ペナントレース2023」6.11での日ハム応援コラムなど。

編/アワジマ(ン)
迷える編集者。淡路島生まれ。陸(おか)サーファー歴22年のベテラン。

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