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詩集『南緯三十四度二十一分』

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詩集『南緯三十四度二十一分』収録作品の一部を掲載しています(発行:2020年)
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彼

あらゆる人間や権力や団体から嫌われている一人の人間がいた。草も花も馬もコンビニの自動ドアでさえも彼のことが嫌いだった。

「あいつは最低だよ」

とみんなは口を揃えて言った。

「顔も見たくない」

ただ一人僕は彼を違う感情でとらえていた。僕は彼のことが嫌いではなかった。好きでもなかった。代わりに彼のことを理解していた。彼の話す言葉、彼の行う動作、彼の表現する感情について一切の判断をやめることにし

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交通規制

交通規制

導水管みたいなソーシャルネットワーキングサービスを通って、あちらこちらで汚い噴水があがる。今朝は曇り空で、いつ雨が降ってもおかしくないように見えたんだ。自走式のゴミ収集トラックがのろのろ走る。ここではパーティは毎夜行われるんだ。異なった棟の別の部屋でね。一体みんな何をそんなに忙しくしているんだろう? 何かを投げ打ってまで言うべきことや必要なものがあっただろうか? 彼らは間違った場所で間違ったことを

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馬鹿

馬鹿

あなたが発した
馬鹿という言葉の中にいる
馬と鹿を連れ出して
北の日当たりの良い草原の
小高い丘陵地帯に茂る
うすら青い萩の葉と麦の穂を
好きなだけ食わせてやりたい
その傍で横になって
トラベルギターを触りながら
彼らのための歌を
作曲してやりたい

詩集『南緯三十四度二十一分』収録作

ブイヤベースまで36キロメートル

ブイヤベースまで36キロメートル

「ブイヤベースまで36キロメートル」という標識が出ていた。砂丘にブイヤベース? 僕はクラッチを踏んでギアを五速に入れた。このあたりは取り締まりをやっていないから少し飛ばせる。長い直線なのだ。あたりに建物はまばら、といってもほとんどバラックみたいな小屋が砂の間にぽつぽつと突き刺さっているだけで、あとはマスタード色の大地が地平線とその輪郭を分かち合っているだけだった。



 オイル交換のために立

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キムチ鍋

キムチ鍋

 今日みたいに肌寒くて雨の降る夜はキムチ鍋を作ろうと決めている。何かにつけて、つまらない、と言う人が世の中にはいて、その現場を目撃するたびに、弱虫が安全地帯から投げてくる石つぶてみたいだな、と首をすくめている。湯気のたつ寸胴はほんのり酸っぱくて赤々とした匂いがする。白菜は先に水で流しておかないといけないから、ざっくり切ってザルにあげる。つまらないものなんて探そうと思えばいくらでもあって、その1つ1

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安らかな仕事

安らかな仕事

深く眠るとき、僕はごく丁寧に亡くなっているのだと思う。そうでなければあの眠りを説明できないから。細い蜘蛛の糸のような手がかりを伝って僕は僕の中にある暗い穴へ降りてゆく。穴はどこまでも深く、懐中灯で照らしても終わりなく下へ続いていく。穴は広く静かになってゆく。静かなことは本来ひどく恐ろしいものだということを僕は思い出す。人間は遥か昔から闇を照らし静寂をかき消してきたのだ。この穴の底には恐ろしいものが

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星くず拾いの1日

星くず拾いの1日

何かの拍子で服が濡れたとしても、それは大した問題じゃない。水はどうせいつか乾くし、人はどうせいつか死んでしまうのだし。たとえこの2つが人生において些細でない事実だとしても、僕は乾燥機にびしょぬれのXLのTシャツを投げ入れるだろうと思う。どかたんごろん、と天が地になり、地が天になる。温かくて大きな怪獣の胃袋。乾かし足りないときのために100円玉を握りしめて待つ。100円玉がじっとり湿ってくる。僕は1

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井戸、そして7月の庭

井戸、そして7月の庭

「昼に浮かぶ月と夜の月が同じものだとは私思えないの」と彼女は言った。
「前者は舐めたらざらざらしてはっかの飴みたいな味がするって思うし、後者は舐めたらばちが当たりそうだもの」
「昼の月は遠くて、夜の月は近い」と僕は言った。



 お隣さんはりんごを投げてよこしてきて、柵をまたぎ花のアーチの下をくぐって僕の隣に座った。

「あそこに井戸が見えるでしょう」

 青い斑点のついたワンピースか

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おしがけピンキーグレー

おしがけピンキーグレー

 那須高原で星が見たいと言ったら君は車を出してくれた。二時間走って降りると海だった。

 夜の海に砂浜はなく、代わりに工場の煙突がピンク色の炎をあげていた。そこは東扇島の埠頭だった。君はナビなんて見なかったし、ここならいいものが見れるんだとか言って車を駐めたっけね。冬の大三角形はかろうじて見えたけど、他の星はてんでダメ。対岸の工業地帯が二十四時間輝いているもんだから、夜空なんて霞んでしまってね。で

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