見出し画像

オオゲツヒメの種子としての『東北学』

『東北学』を、展示準備のために読みかえしている。
と言っても、過去に精読していたものもあるけれど、流し読みで記憶に残っていなかったものも。
が、改めて読んでみると、これほどまでの熱量、情報の量と質、そして変革への明確な意思があったのかと唖然とする。

〈東北学〉は、民俗学者の赤坂憲雄が提唱した東北地方の、文化、地理、歴史、経済的な学際的総合研究の方法及びその呼称だ。ここから多くの雑誌が出版され、膨大な知がこの東北学に注ぎ込まれてきた。

以前、赤坂先生から東北学のことについて以前伺った際に「自分の肢体が食い散らかされ穴が空いていくようだった」と話されてショックを受けたことがあった。

その真意をその時は解りかねていたのだけど『東北学/忘れられた東北』の学術文庫版まえがきを読んでハッとした。

-—
わたし自身の〈東北学〉の構想は、それぞれの雑誌の特集テーマに溶かし込まれ、散り散りとなり、ついに『東北学』本論へと結実することはなかった。もはや過去形である。
----

二〇〇八年十月末日、と文末には記されている。その2年半後、東北芸術工科大を辞め学習院大学へ移ることになる。2年半後とは、2011年3月のあの地震の直前のことだ。

それから、2012年出版された書籍『3・11から考える「この国のかたち」東北学を再建する』のあとがきにはこう書かれている。

----
わたしの東北学の第二章への道は、確実に始まっている。あらたな歩行と思索の流儀が必要とされているにちがいない。東日本大地震の被災地をフィールドとして、祈りにみたされた東北学を創ることができたなら、と思う。この小さな本を、東北のいまを生きる友人たちに捧げたい。
----

その後の赤坂先生のアクションは断続的にしか追えていない。
期せずして、ご一緒にお仕事をさせていただく機会も得たが、東北について、東北学についての話は途切れとぎれにしか伺うことが出来ず、フィールドは他の土地へ移ってしまわれたのかとも思えた。

改めて『東北学』をみる。「いくつもの日本へ」「いくつものアジアへ」「南北論の視座」「廃村」「旅学の時代」「死者と生きる」「家族の肖像」…どれも東北に軸足を置きながらも、そこにとどまらない、令和の現在であってもアクチュアルで普遍への視点に開かれたものばかりだ。

その特集の一つひとつが赤坂先生の肢体だったのだ。自らを人身御供とし、何を成し得たのか。それは分からない。僕は赤坂先生の弟子でもなければ生徒でも友人でもない、彼の真意など知る術もないのだ。



けれど、この『東北学』が、このように書物として遺されていることは、やはり希望なのだと感じる。
『東北学/忘れられた東北』のまえがきには、前述の文章の後、このように続いている。

----
いや、そうではなく、『東北学』の種子は広やかな東北の大地に蒔かれ、そのいくつかは芽を出し、やがて稚い樹木へと成長してゆこうとしているのかもしれない。そうであれば救われる。
----

ふと、オオゲツヒメの話を思い出す。犠牲となったオオゲツヒメは頭から蚕が、目から稲が、耳から粟が、鼻から小豆が、陰部から麦が、尻から大豆が生じ、これが穀物の起源なのだと、古事記には書かれている。

その種子は、オオゲツヒメの知らないところで、東北やそれ以外の土地で、時空をこえて芽を出し続けていくのだろう、と思う。本とは種子なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?