本当に役立つ物ほど気づかない・空気と同然であると思う。

この意見は大変主観的な意見だと思う。

以前はバイトもせず卒業研究にもフルコミットせずふらふらと日々を歩くだけであった。そんな中、私は日々空想にふけながら、たまに哲学の本や動画に没頭し、それを日々の景色に融合させて紐解いてゆくと言う生活を送っていた。私が見る対象は私の危機を脅かしたり、刺激的な物では無く、街や私と直接的な関係のない人々、レストランのメニュー、本屋の本などであった。そのような“優しい”オブジェは私たちの日々を静かに支えていて、そう感じさせる物でもあった。

そう、それらは、私たちに気づかせないうちに、私たちを支えているなと。

電車に乗ったことがある人が大半だと思う。しかし、私達が電車に乗っている時、私達は「電車に乗っている!」と意識づけているだろうか。私達が椅子に座っている時、私達は「椅子に座っている!」と意識づけているだろうか。

私達は威風堂々と精神的な活動をする事ができる。ファミリーレストランで、友人との近況を語り合う。サンマルクカフェで、商談をする。東京スカイツリーの展望デッキで、恋人との時間を過ごす。その様は、まるでお殿様が寝室に入ったときには既に遊女とお布団が用意されている状況と同じではあるまいか?そして、ある種踏み台的な役割を果たすオブジェこそ、私達を推進させているのではないだろうか。そして、推進の先にはさらに先読みされたオブジェが必要なのではないだろうか。

最近私は単発のアルバイトを連続的に入れている。単発なので「成長見込み」ではなく、一つのコマとして扱われる事が多く感じる。ホテルで皿洗いの業務をした時は、このオブジェの正体をはっきりと確認した。(オブジェは固定的な物では無く、今回は人とその動きであるが。)業務に入った前半、私一人で皿洗いと、洗った皿を拭き、定位置に戻すと言う作業を行なった。業務内容自体は至って単純である。しかしながら、金曜の夕刻の頃、退勤ラッシュの総武線の様に私一人ではキャパシティ・オーバーであった。その後、ヘルパーさんがきた。ヘルパーさんは皿を拭く役割と定位置へ戻すことを率先して手伝ってくれた。私は途端に皿洗いに没頭した。世界は何も見えなくなったが、皿だけはどんどん洗浄レーンに効率的に流れていった。

後日、私は皿洗いの革命のビフォーアフターを知っていたことから、今度はそれを実践した。今度は皿洗い場に、単発の私と、単発の主婦の方。主婦の方は何度も皿洗いの仕事経験があるらしい。私は2回目であった。業務開始直後、年末年始の羽田空港くらいの量密度の濃ゆい皿の群が私たちを襲った。主婦の方は皿をどんどんとウォッシャーという自動洗浄マシンに入れていきはじめた。私は凹の凸を埋めるかの様に皿を拭き定位置へ戻す役割を果たした。主婦の方は皿を洗い終えた。私はまだ皿を拭いている。主婦の方は刹那、暇そうにした。その後、一種の気づきを得たかの様に、お客様がいるビュッフェのエリアに繰り出し、下げられた皿や箸などが積んであるワゴンを洗浄室へ運んできた。私は、一瞬彼女からの独立と申し訳なさを感じた。ここで、私は決意した。昨日の経験と先程のモヤモヤを解決するために、「主婦の方が皿洗いに集中させる様にしなければならない」と。私は100%の労力を皿を拭くことと定位置へ戻すことに費やしていたが、勿論そのスタンスは崩さずに、主婦の方の目の前にある洗うべき皿が少なくなってきた瞬間に、すかさず彼女の手元に汚れた皿をチャージする。そして、同時に彼女がウォッシャーレーンに流した皿を迅速に拭き上げて定位置へ戻していく。それも空気を消す様に。生意気な私は仮説を立てた。「自分がどんどんと洗った皿が、瞬く間に定位置へ戻っている。」と最低限、現象を確認し、確信を持てた時、更に没頭していけると。(その仮説は概ね当たっていると思う…。)

しかし、ここで注意しなければいけないこと。役立つものは、タイトルにもある通り、空気である。決して自我は持っていないと言うこと。「皿戻しましたぁ!」とか「皿チャージしまぁす!」とかは言ってもいいが、それ以前に大事な事がある。無機質ドリブンというか、機械ドリブンというか、結果ドリブンというか、技術ドリブンというか、もっと一括りにすると「消えた気遣い」とでもいうのか。「あるようでない、ないようである」という、人間の没頭的な活動の裏側にあるモノは、その正体に気づけたならば、静かに熟成していくべきなのではないかと思う。

それを語らう場所は、ワインテラスで「あの時は…」とカマンベールチーズを右手で持ちながら…🍷👦

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