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錯綜する正義、自由と責任の在り方——カルバノグの兎編2章前編・感想【ブルーアーカイブ】

 戦術の本質は「敵を知り己を知る」ことに尽きます。
 このためには、編成、装備、戦術、戦法など軍事面だけではなく、歴史、文化、民族の特性などを幅広く知ることが必要となります。自らの物差しで敵を計るのではなく、形而上の機動すなわち精神の自由と柔軟性が求められるゆえんです。

「戦術の本質 完全版 進化する「戦いの原則」をひも解く」
p.224 木元寛明

・「統合作戦の原則(principles of joint oprerations)」の一つに「機動(Maneuver)」がある。狭義の定義では「作戦または戦闘において、敵に対して有利な態勢を占めるために部隊が移動すること」だが、本原則では精神面の柔軟性まで含めて、より広義に捉えている(同上p.22より)

「SRTの正義は、いかなる状況でも揺らぎはしません。」

・あの日、月雪ミヤコが憧れた「正義」の在り方は、まさにその原則を体現したものだったのだろう。2年前、SRT特殊学園が設立されて間もない頃。FOX小隊は目覚ましい活躍ぶりを見せた。カイザーインダストリーの軍需工場に潜入し、条例違反の兵器が製造されていることを示す有力な証拠、および関係者を明らかにする機密文書を入手。ヴァルキューレ警察学校や自治区では対応が難しい案件であり、かつ少数精鋭部隊である彼女達だからこそ成し遂げられた任務だ。

・連邦生徒会長が直轄する組織でありながら、結果として連邦生徒会の不正行為を暴く形になってしまったが、小隊長であるユキノは毅然として自分の信念を説いた。「正義とは、理にかなった正しい道理のこと。SRTの正義は、いかなる状況でも揺らぎはしません。」——それは決して表面的な言葉ではなく、奥底にある精神の自由と柔軟性を打ち出していた。

後ろにある「転入生募集」のポスターにはヴァルキューレ警察学校の校章。ミヤコは元より正義感が強い性格で、本来の進路はヴァルキューレだったのだろうか。

・何者にも囚われず、正当な手段で世の不正を正すプロフェッショナルな戦闘集団——キヴォトスに突如もたらされた一筋の光明。少女は高潔なその理想に心を突き動かされ、厳しい選抜試験を潜り抜けてSRT特殊学園への入学を果たした。

「汚い現場で、どれだけ妥協に塗れながら公務を処理していたことか!」
(1章19話)

・しかし、人は理想だけで生きることはできない。ヴァルキューレ警察学校公安局長・尾刃カンナが違法リベートに手を染めたように、現実には様々な困難があり、理想に折り合いをつけなければならない状況に直面することが多々ある。SRT特殊学園もやはりその例に漏れない。1章4話でカヤが語った通り、連邦生徒会長が失踪したことで管理者不在となったその強大な兵力は、危険な火薬庫も同然の存在として問題視され、やがて閉鎖の道を辿ることになった。SRTが掲げた理想は現実的な都合に振り回され、かくもあっさりと瓦解した。

「……さあ、月雪小隊長——決めるんだ。」
「躊躇(ためら)いを抱いたまま、錆びたナイフで正義を振り翳(かざ)す事ほど無様なことはない。」

「正義」を志す者に待ち受ける受難。先人達と同じ泥道を辿る兎達は、何を見るのか——理想と現実の狭間でもがく者達の激突が幕を開ける。元ネタの考察も踏まえながら、カルバノグの兎編2章「We Were RABBITs!」前編の初見感想文をお届けします。

<1章の感想記事はこちら>

FOX小隊——委ねられる選択

「パンにキノコ炒めと卵……今まで想像すらできなかった贅沢な朝食だな。」

・サキお姉ちゃーん! えへへっ、久しぶりだねっ!😊 ……あっごめんごめん。「空井サキの義妹。姉とは違いヴァルキューレ警察学校の道に歩んだが、彼女を献身的に慕い続けている」ってのは私の脳内小説の設定だったわ🙏💦

・先生はRABBIT小隊のベースキャンプ地である子ウサギ公園へ。ピンチの時に助けてもらった時(最終編1章)のお礼として、ステーキ用の特上牛ロースを贈呈。一同は満面の笑みで高級焼肉に舌鼓を打つ。いつまでもこんな日が続けばいいのだが……今なお「色彩」がもたらした騒動が尾を引くこのキヴォトス、平和なひと時はやはり長くは続かない。

「待って。それじゃ私たちの売った武器は、
シャーレを襲撃したやつらの手に渡ってたってこと?」

・ひょんなことから、シャーレの部室が占拠された当時の映像を確認してみることに。すると、SRTでしか手に入らない装備を身につけた人物が出入りしていたことが発覚。私達が売却した武器(1章14〜15話)が使われていたのかも……そんな疑惑に駆られたRABBIT小隊は、先生に内緒で真相を確かめることにした——ってコラ❗ 重大なインシデントの疑いが発覚したら可及的速やかに報告しなさい❗😡 初動で遅れたらリスクが広がる一方でしょ! SRTで学ばなかったの!? まったくもう……帰ったらお仕置きね。一日だけ本当にお義姉(ねえ)ちゃんになってもらうね。

・RABBIT小隊は容疑者の位置を特定。建物内部に侵入。すると、そこで待ち受けていたのは——

「久しぶりだな、月雪小隊長」
「……再会できて、嬉しいぞ。」

・FOX小隊隊長・七度(しちど)ユキノ。SRT特殊学園の先輩。ミヤコと一戦交えて完膚なきまでに叩きのめし、戦闘技術の未熟さを指摘し、的確なアドバイスを与える。しかし厳しさだけではなく、後輩と再会したことを素直に喜ぶ……えっもう好き。先輩としてのカリスマ性と優しさに満ち溢れていますね。お義姉ちゃんになりませんか?

・ちなみに、付け焼き刃の知識で補足しておくと、ユキノがミヤコに閃光弾を投下する時につぶやいたフォックストロット(Foxtrot)というのは、

・NATOフォネティックコードが元ネタ。チームA(エー)、チームB(ビー)ではなく、チームA(アルファ)、チームB(ブラボー)と呼ぶ定番のアレ。続くのはC(チャーリー)、D(デルタ)、E(エコー)、そしてF(フォックストロット)。恐らくこの場面では"F"lash Bang(閃光弾)の暗号。暗号化することで、味方にだけ閃光弾を投下する旨を知らせるという意図だろうか。ではなぜミヤコは気づけたのか——

「サキ、今です!フォックストロット投下!」
「了解!閃光弾、いくぞっ!」

・実は1章18話でもミヤコとサキが同じやり取りをしています。SRT特殊学園共通の暗号なのかな。RABBIT小隊がFOX小隊と同じ学び舎で過ごし、同じ教練を受けたという事実が、この些細な台詞に凝縮されているように感じられてめっっっちゃいい。

左から順にニコ、オトギ、クルミ

・さてさて、ユキノ以外の隊員は……うん、ビジュが完璧だ。やっぱケモミミって最高や。それぞれ耳の形が違いますね。大きさや色から察するに、ニコはフェネックがモチーフかな。みんな私のお義姉ちゃんになってほし——ん?

「もう!細かいことばっか気にしすぎ。
そんなんだから反応が遅くなるのよ。」

・ツンツンとした子がいますね。小隊の先頭に立つポイントマンとしての気概を感じられる。ふーん、いい子だねクルミちゃん。偉いね。かわいいね。私のことはお義姉ちゃんって呼んでね?😊

・FOX小隊はなぜあの時シャーレに侵入し、しかも連邦生徒会を襲撃したのか。何やら壮大な計画がありそうだが、詳しくは教えてくれない。代わりにユキノが語るのは——

「なに、突然の事故で後輩に背負わせた責任を、我々が再び背負うというだけの事だ。」
「以後、困難な選択はすべて我々に任せるといい。」

・RABBIT小隊に、FOX小隊の支隊となることを命じる。武器は自ら判断しないからこそ価値がある。先輩である私達に全て任せればいい。そして手を差し伸べる。「……さあ、月雪小隊長——決めるんだ」と。強要するのではなく、あくまでも自主的に決断させる、という形に留まっている。

・これは……最終編までの物語とは違う切り口じゃないか?🤔 今まで通りであれば、敵と対峙するこういう場面になると大体は「強制」だ。対策委員会編では黒服によるホシノの勧誘は暗黙の脅迫だったし、時計じかけの〜編ではアリスはみんなを傷つけないためにリオの元に行かざるをえず、エデン条約編でもサオリはスクワッドを守るためにベアトリーチェに従うしかなかった。最終編におけるあっち側のシロコも「色彩」によって反転した。どれも強制か、もしくは不自由な選択を迫られるものばかりだった。その悲惨な運命の中で、先生は大人として、責任を負う者として、子どもの未来を守るために行動する。それが今までの描き方だ。

・でも今回はちょっと違う。RABBIT小隊は「選択」を委ねられている状態だ。別に仲間を人質に取られているわけじゃない。むしろ「月雪小隊長が持つ裁量権は尊重しよう」と善処してくれる。だから先輩達の理念に共感できるならそのまま付いて行っちゃえばいい。FOX小隊は厳しい指導を施しながらも、温かく歓迎してくれるだろう。おいしいおいなりさんもご馳走してもらえる。公園のキャンプ生活ともおさらばだ。かなりの好条件である。

「子どもである私たちは、先輩に責任を預けて——言われた通りに行動すべきなのでしょうか……?」

意志を持たない屈強な武器として共に戦うか、脆弱な迷い人として戦い続けるか。かつて羨望の眼差しで見ていた先輩から提示された二択。自分が求める「正義」はどちらにあるのか。ミヤコは迷う。未熟な私では間違えてしまうかもしれない。先輩なら正しい判断をしてくれるかもしれない。先生の一言で、とりあえず時間をもらって考えることに。

・後の先生とカヤの会話でも同様に、先生は選択を委ねられる。最終編と題するエピソードが完結した後、いったい何を描くのか気になっていたが……なるほど、どうやら焼き直しではない。これまでは強いられるばかりであったが、ではいざ自由を与えられたら何を選択するのか? そんな問いを含んでいるように感じられる。「最終編以後」の新しい物語が着実に動き始めた。そんな予感を抱かせてくれる。はたして、月雪ミヤコは何を選び取るのだろうか。


カルバノグの兎——連邦生徒会と「円卓の騎士」

「確かその人の作品に、
聖杯を探す騎士団が野生のウサギと戦う話がありましたよね?」

・さて、話は遡りますが——いよいよタイトル回収が始まったのでそこにも触れておきます。3話で語られる小説は「カルバノグの兎」というタイトルの元ネタであるイギリス映画「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」と全く同じあらすじ。へへっ、円盤買って予習しておいて正解だったぜ。ちょこっとだけ解説と考察を。

・同作はかの有名な「アーサー王物語」をモチーフにしたB級コメディ映画。物語の中盤、アーサー王が率いる円卓の騎士達は、聖杯の手がかりを求めて、恐ろしい悪魔が潜むとされるカルバノグの洞窟へ赴く。すると、洞窟の入り口からかわいい兎がひょっこり姿を現す。なんとこの兎こそが悪魔なのだという。試しに騎士の一人が立ち向かってみると、

「「ウサギは一見温厚で可愛い動物だが、
一度怒ると武装した騎士にも挑む恐ろしい獣」だ、と。」

兎はたちまち俊敏に跳び回り、騎士を噛みちぎった。アーサー王は残りの騎士達と共に総攻撃を仕掛けるも惨敗。辺りは凄惨な血の海と化した。

「いや、ウサギは騎士団が使った手榴弾で一網打尽になるが……。」

・アーサー王が聖手榴弾を投げて兎を撃退したことで戦闘は終了……と、ご覧の通り、細部に至るまであらすじが同じ。ちなみに、この聖手榴弾は下江コハルの「セイなる手榴弾」の元ネタ。球体に十字架というデザインがほぼ同じ。

「とあるトリニティの小説家が、食事に出てくる豚肉の缶詰に飽き飽きして、
自分の作品に登場する食べ物をすべて豚肉の缶詰に変えて抗議したくらいだ。」

・豚肉の缶詰はスパムのこと。これも同じくモンティ・パイソンが元ネタ。シナリオライターさんの「元ネタはこれやで! これやで!」という念押しであるように感じられる。

・この「カルバノグの兎」が「RABBIT小隊」を指していると見て間違いないだろう。それが意味するものは何か。件の兎は円卓の騎士に襲いかかるので、RABBIT小隊も円卓の騎士と同一視される組織に立ち向かう構図になると考えられる。

・では、RABBIT小隊が立ち向かう円卓の騎士とは、どの組織を指しているのか。やはり1章から彼女達が抗議し続けていた相手、連邦生徒会だろう。私がざっくり見た限りだと、両者が重なる描写が2つ。1つ目は席数。円卓の騎士はブリテンの王であるアーサーと、彼に仕える騎士12人から成る。1(王) + 12(騎士) = 13。そしてキヴォトスを統治する連邦生徒会も——

・1(会長) + 12(行政官と各室長) = 13。上記ツイートの「?」に判明した設定を当てはめると、交通室(モモカ)、財務室(アオイ)、人材資源室などで埋まる。

「それは毒の入った聖杯のようなものですよ、防衛室長。」
(7話)

・2つ目は、リンちゃんが口にする「毒の入った聖杯(poisoned chalice)」という慣用句。カヤとの会話で「権威」に潜む危険性のたとえとして用いられる。アーサー王物語でも、円卓の騎士達が聖杯を求めて冒険する様子が描かれる。意図的な設定および台詞と見て間違いないだろう。

・カルバノグの兎。連邦生徒会と円卓の騎士。この暗喩が意味するものは何か。まずひとつ言えるのは……円卓の騎士が崩壊する原因になったのは、

銃はベレッタM92に近いデザイン。
連邦生徒会の制式拳銃か。

・騎士モードレッドの裏切りだ。「キリストと十二使徒」においてもユダの裏切りがある。さらに言えば、十三を不吉な数とする因習はキリスト教以前からあった。この裏切りはまさに、連邦生徒会が必然的に辿る宿命か。


不知火カヤ——聖杯、超人への信仰

・リンは可能な限り周囲の意見を汲んで業務を遂行しようとする。これは「キヴォトスは超人によって指揮されるべき」とするカヤの思想と相入れない。カヤはリンのやり方を衆愚政治であると見なし、連邦生徒会長代行にふさわしいのは自分であると主張。用意周到な計画と根回しが功を奏し、リンを軟禁、彼女の不信任議決案が可決。カヤは連邦生徒会長代行の座に就く。

「連邦生徒会長代行の権威を使って役員に命令すれば、
手間取ることなく仕事をこなせるのでは?」

・カヤの思想や行動はマキャヴェリズムを彷彿とさせる。その思想の原点はニッコロ・マキアヴェリ著「君主論」。第8章「悪らつな行為によって、君主の地位をつかんだ人々」にはこんなことが書かれている——自分の立場を守るために残酷な手段を用いたとしても、それに固執せず、臣下の利益になる方法に転換できる者は、国の保持に適切な対策を講じることができる。カヤもそういう考え方なのだろう。権威に物を言わせる強引な手段であっても、さらにはクーデターという暴力的手段であったとしても、それがキヴォトスに利益をもたらすのであれば正当化される。それを完璧に成し得るのが超人である。カヤは超人の信奉者として、その思想を体現するためにクーデターを実行したのだ。

「では、これまでリン行政官も仕事の合間に何度もこのような対処をしてきたということですか。」

・しかし、理想と現実は必ずしも一致しないもので……なんせ仕事の物量がえぐい。相次ぐトラブル。書類の全面訂正。サボり魔の部下。どれだけ優れた指導者であっても、一人で全ての業務をこなそうとすればオーバーワークになることは必至。はたして、カヤの超人思想に基づく行政は為し得るのか。リンちゃん、見えないところでずっと頑張ってくれてたんだね……ありがとう……🙏

 ところで、思慮のとぼしい人間は、あるとき美味を味わうと、その底に毒がひそんでいるなどとは気づかずに、さっそく飛びついてしまう。これはまえに話した消耗熱(肺結核)とおなじである。したがって、君位にある人が、現実に災禍が生じるまで気づかないようでは、真の名君というわけにはいかない。もっとも、こうした洞察力をもつのは恵まれたごく少数の人でしかない。

「新訳 君主論」p.84-85 マキアヴェリ
池田廉訳

・まさに毒の入った聖杯。聖杯=権威であるなら、それを追い求めるカヤにカルバノグの兎が——RABBIT小隊が立ちはだかる。聖杯の毒(権威の濫用)が広がるのを阻止するために戦う。そんな展開になることが予想される。

・……うーん、やっぱり憎めないなカヤ。「ほんまなんやねんこいつ❗💢 ケツ出せやオラァ❗❗」と思ってしまう自分がいるけど。カヤは根が性悪なわけではなく、連邦生徒会長のポストが空席となった混迷の時代の中で、必死に答えを探し続けているのだろう。心の奥底では救いを求めているのかもしれない。連邦生徒会長がいなくなってしまったからこんなことになってしまった、やはり私達は超人に導かれなければならないのだ、という信仰が生まれるのはごく自然なことであるように思う。

「気にするな。不義に対する闘争と権力への抵抗は、労働者として当然のこと。」

・エデン条約編のミカだって、その時自分が最良と思う手段を常に実行してきた。ならば、あの時と同じように、他人の心の内を証明できずとも、楽園を信じて進み続けよう。いずれカヤと手を取り合える日が来るかもしれな——ん?

「……では今、連邦生徒会長代行を務めているのは誰だ?」
「ん? 一応、不知火カヤ防衛室長が後任に指名されているが……」
「カヤ連邦生徒会長代行の糾弾を開始する!」
「あたしたちは、この地における
すべての権力者と資本家が消えるまで闘争を止めない!」

うむ❗❗
よくぞ言った同志ミノリ❗❗

「あたしたちレッドウィンター工務部は、新たなる闘争を開始する!」

同志諸君❗ ゆめゆめ忘れるな❗
悪しき為政者を打倒し、
労働者への不当な搾取が止むまで、
我々は不断の努力で闘争を続けなければならない❗❗

さあ拡声器を持て❗❗📢⚡


自由と責任

・……はっ、いかんいかん。正気に戻りました。いやもうほんとズルい。「なんでこのタイミングでミノリ実装なの?🤔」とは思ってたけど、まさかここまで場を引っ掻き回す形で登場するとは。夜中なのに手を叩いて大爆笑しちゃった。

・先生はカヤの呼び出しに応じる。そこで提示されたのは「シャーレ行政手続きの改善案」。カヤは何としてでもシャーレを手中に収めたいだろう。なんせ超人たる会長の遺産だ。生徒から人気を博している先生を全面的に支援すれば、代行として民衆から支持を得ることもできる。

・カヤ曰く、この改善案が通れば、先生はどんな罪を犯しても、どんな問題を起こしても、責められることはなくなるのだという。

「ですから、私が先生の面倒を見ます。」
「何もかもを私に任せて、自由に——楽になりましょう?」

・責任の譲渡。ユキノからミヤコに言い渡されたものと同じだ。先生は「大人が責任逃れをする姿を見せてしまったら、先生として生徒の模範になれない」としてこれを拒否する。

・この場面、先生とカヤでは「自由」の捉え方が根本的に異なるように感じた。ふと思い思い出したのは哲学者サルトルの言葉だ——「人間は自由の刑に処せられている」。私達は社会的なルールや価値観の下で生き、その中で自分や他人が正当化されたり、罰せられたりする。しかし、それらは人々の社会通念や共通認識によって形成されたものであり、その是非を決定づける形而上学的な本質は本来どこにもない。人間が本源的に抱えるのはそんな、いかなるものも自分の行動を正当化し得ない「自由」である。サルトルはこれを「自由の刑」と表現した。

人間は自由である。人間は自由そのものである。もし一方において神が存在しないとすれば、われわれは自分の行いを正当化する価値や命令を眼前に見出すことはできない。こうしてわれわれは、われわれの背後にもまた前方にも、明白な価値の領域に、正当化のための理由も逃げ口上ももってはいないのである。われわれは逃げ口上もなく孤独である。そのことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい。刑に処せられているというのは、人間は自分自身をつくったのではないからであり、しかも一面において自由であるのは、ひとたび世界のなかに投げだされたからには、人間は自分のなすこと一切について責任があるからである。

「実存主義とは何か」p.50-51 J-P・サルトル
伊吹武彦訳

・カヤは、厳しい規律と、それを完璧に制御できる超人によって、自由が担保されると考える。しかし、先生の考え方では、たとえ規律でお膳立てされたとしても、自分を正当化することはできない。実存的な自由の中で、自分の行動について「大人」として「責任」を負わなければならない。これまでもずっとそうだった。たとえ他者の心の内を証明できずとも、大人として生徒を信じることから始めたように。

・「以後、困難な選択はすべて我々に任せるといい」「何もかもを私に任せて、自由に——楽になりましょう?」——ユキノとカヤからの問いかけに対するRABBIT小隊と先生のアンサーは、こうした「自由」と「責任」の連関の中にあるのではないだろうか。誰かに自分の本質の全てを委ねてはならない。迷いながらも。間違えながらも。自分の行動は自分自身で「責任」を負わねばならないこの「自由」を、私達は生きなければならない、と。

「子供たちが苦しむような世界を作った責任は、大人の私が背負うものだからね。」
(エデン条約編4章25話)

・責任は大人が負うものだと先生は語る。それは子どもは何でもかんでも大人に決めさせちゃえばいい、という意味では決してないだろう。先生は必ず生徒の意志を尊重する。生徒自身が望むことを行わせるために。なりたいものになれるように。それはとても聞こえがいい言葉だ。しかし——

「温室の中で過ごしていた時に見た、甘い夢。」

・混迷の時代。信じ続けていた理想が潰えて、午睡の夢のように儚いものであると悟り、それでもなお理想に拘泥しながら自分の意志を保って進み続けるのは辛く苦しい。どうすれば私達は救われるのか。その問いの果てに、物言わぬ武器になることで他人に判断を託したり、超人と規律を——聖杯を絶対的なものとする新世界を目指したりするのは、それもまた人間らしい選択であると私は思う。

(誰もが規則を守り、法によって正義が実現された社会なのに……
まったく安心できないなんて)
(これが私の夢見ていた正義の姿なのでしょうか……?)

・ユキノとミヤコ、カヤと先生。はたして、その相克は何を生み出すのか。カヤによる新世界の秩序を目の当たりにしたミヤコは、「自由」の中で何を「選択」するのか。理想と現実の狭間でもがきながら泥臭く歩み続ける兎達の物語をしっかり見届けたいと思います。まだ登場していないヴァルキューレ警察学校の生徒がどう描かれるかも楽しみですね。それではまた後編(中編?)で。

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