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【読書の記録】伸縮性の時間を言葉にすると

1ヶ月半をかけてトーマス・マン『魔の山』を読み終えた。

消化不良どころか舌先で味わった程度の浅薄な理解で綴っているため、解説、感想文ではなく単に心に残った点を「記録」するというタイトルを謳っている。

これまでにnoteに公開してきた中でも特にまとまりを欠いた文章に仕上がった。

誰のためでもなく自分のために書いた文章をそのまま公開するからだ。

読者の皆様の大切な時間を無駄にしたくないという気持ちから、この注意書きを入れることにした。

(名前が浮かぶいつも読んでくれている方へ、適当に読んでくれむしろ読まなくてもいいよ、と伝えたいがためのまえがき)



「魔の山 解説」の検索トップで出てきた記事の洞察が優れており、本編に溶かした時間よりずっと短く読めたが、得るものが多かった。

このnoteにおいても、いくらかこちらを参照している。

魔の山とは何なのか。上記記事より、この物語のあらすじを引用する。

主人公ハンス・カストルプが結核患者である従兄弟の住むサナトリウムへ赴きます。滞在するうちに自分も結核だと診断されて、そのまま山の上の人々と食べたり議論したりして過ごします。やがて7年が経過すると山を下りて、ハンスは第一次世界大戦へ従軍します。おしまいです。

本当にこの通りだと感じた。1ツイートでまとまる長編小説。

私が手に取った新潮文庫版(引用記事サムネイルのもの)魔の山は上下2巻各700ページを超えるボリュームの構成。


主題①死生観、病気

私がこの本を手に取ったきっかけは村上春樹だ。

ノルウェイの森の主人公ワタナベが作中で読んでおり、興味を持った。

ちなみにノルウェイの森で(確か)唯一太字になっているフレーズは以下のものになる。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。–ノルウェイの森 上 p.46


更に魔の山より、一節挿入。

死に対して健康で高尚で、そのうえーこれは特に申添えたいことですがー宗教的でもある唯一の見方とは、死を生の一部分、その付属物、その神聖な条件と考えたり感じたりすることなのです。–魔の山 第5章


この小説で数多く議論される二項対立のうちの一つ、死と生は特に重要な主題の一つといえよう。

ノルウェイの森でワタナベが読んでいたのがこの本でなくてはいけなかった理由も、ここに見えてきそうだ。



ハンス・カストルプは幼い頃両親を亡くした孤児で、死を身近に感じてきた。

肉体的な死の醜さ、それを覆い隠す儀式の荘厳さに対する所感が「魔の山」へ入る前の序盤から繰り広げられる。

物語が進むとハンス・カストルプはサナトリウム(療養所)で死に立会い、死について論舌を交わし(ているのを聞き)、より考察を深めていく。


死に方にも様々ある。

魔の山は療養所の物語のため、特に病気(ここでは主に結核)による死、また病気を伴う生を問題としている。

まったく健康な人間なんて、私はまだお目にかかったことがないのですから。ー上 p.41
死と病気に寄せるいっさいの関心は、生に寄せる関心の一種の表現にほかならないからだ。ー下 p.300



主題②時間観念

大層読むのに骨が折れそうだな、と予感されるまえがきより

というわけで、作者はハンスの物語を手短に話し終えるというわけには行かないのである。一週七日では足りないだろうし、七ヶ月でも十分ではあるまい。いちばんいいのは、話し手がこの物語に係わり合っている間に、どれほど地上の時間が経過するか、その予定を立てないことである。いくらなんでも、まさか七年とはかかるまい。

全て読み終えてまえがきに帰ってくると、既にこの物語全体で重要な点が示されていることに気づく。

太字にした「地上の時間」という言葉。高山に建てられたサナトリウムで、住民(患者)たちはそこを「ここのうえ」と称している。

上(山の上)と、下(私たちの住む地上)では時間の流れ方が大きく違っている点。

同じく「七年」という言葉。初めは何週間、何ヶ月、といったハンス・カストルプの過ごした時間が具体的に示されるが、段々この経過を追うのが難しくなってくる。

いつの間にか、あらすじにもあったとおりハンスが魔の山に入り地上に下りてくるまでの間に七年が経っていた。

この経過した物語的時間。



時間が長く感じられる、時間があっという間に過ぎる、という体験はいつでも起こる。

このような時間の伸縮性を小説家が記述するとどうなるのか。

なるほど、と思わされる記述が多かった。

時間についての文はあまりに多かったが今の私が心に残った箇所を記録。

普通の毎日はいくつもの小部分から成っていて、、その毎日は同じことの連続であるから単調で、長くも短くも感じられなかった。ー上 p.394
昼間は細かく区分され、分類されて短くなったが、夜は流れすぎる時間が区別なく融け合っているために、昼と同様短く思われた。ー上 p.423
待つとは、さき回りするということであって、時間や現在というものを貴重な賜物と感じないで、逆に邪魔者扱いにし、それ自体の価値を認めず、無視し、心の中でそれを飛び越えてしまうことを意味する。ー上 p.497
時間は活動し、動詞の性質を持っている。時間は「生み出す」のである。時間はいったい何を生み出すのか。時間は変化を生みだすのである。ー下 p.7


時間に付随して

もっと前にも時間、物語、音楽の関係は言及されていた。しかしここでは最終第七章の冒頭に触れる。

物語は、時間を充たす、つまり時間を「きちんと埋め」、時間を「区切り」、その時間にはいつも「何かがあり」、「何かが起っている」ようにするという点で、音楽に似ているからであるー。ー下 p.401
しかし、音楽と物語との間にひとつの相違があることも同様に明らかである。音楽の時間的基盤はただひとつのものである。
すなわち、音楽の時間的地盤は人間の地上的時間から切りとられた一部分であり、音楽はその中へと注ぎ入って、それを名状しがたいほど高貴にし、かつ高める。
これに反して物語は二重の時間を持っている。すなわち第一に、物語自体が必要とする時間、物語が経過し減少する過程のささえとなる、音楽的、現実的時間であり、第二には物語の内容となっている時間である。ー下 p.402


物語

以前の章で何気なく「物語的時間」という言葉を使ってしまったが、これはマンによる言葉である。

実の所、私たちが時間は物語ることができるかどうかという問題を提出したのも、私たちが現に進行中のこの物語によって、事実上これを企てているということを白状したかったからにほかならない。下 p.404

この企てが成功したのか否か、その判断を下すほど十分に読み込めていない。私自身は、この物語から時間についての示唆を得ることができたと感じている。


音楽

サナトリウムに蓄音器が導入され、ハンス・カストルプが他の住人に抜きん出てこれに没頭するシーンがあった。

解説を読むと、ハンス・カストルプが特に気に入った曲ひとつひとつが物語に対して持つ意味がわかる。ノルウェイの森で魔の山が登場したのと同じ具合で。

時間とは、ほど多くはないが音楽もこの第七章冒頭以外でも書かれている箇所があった。

世界じゅうどこへいこうと、どんな変った環境の下でも、おそらくは極地探検の際でも、音楽が演奏されるということは、ありがたいことだと彼(ハンス・カストルプ)は思った。ー上  第五章

サナトリウムで音楽が演奏されていたのを小説で描写したのは、サナトリウムの生活を詳細に記述するという目的のためであるのと同時に、音楽は時間を可視化するのに優れた手段だったからであろう。(上述 p.401の引用など)


時間と音楽の関係について深く考えたことはなかったが、
まず音楽が時間(音楽的時間=地上的時間=現実的時間)を可視化する手段であること、
次に音楽が時間に価値を与えること
を知ったのは、音楽を楽しむうえでよいことだと思った。


印象

引用を主体にとっ散らかった文章を綴ってきた。

最後にこの小説を読み感じたことをメインで書いて終わりにする。

主題①死生観、病気

これはある結論に辿り着くことができなかった。死の新たな側面に気づき、「死は生の対立ではなく一部分である」という主張の理解を深めたが、この一言でまとめられる以上のことを考えるのは今後の課題になりそうだ。

魔の山を読み終え、次は何を読もうかしら。

と言っていたら類似の推薦図書をいただいたので、読んでもう少し言葉にできることがあれば、この本を読んだ意義ももう少し現れるだろう。


主題②時間観念

死生観、病気についての考察が主に対話の中で進むのに対し、時間については地の文(作者の存在が感じられる、サナトリウムでの物語からは一歩離れたところで進む文)に書かれたものが多かった。


七年の物語であり、七章で構成されていることは既に述べた。

しかし、一年が一章に対応しているというわけではない。

割かれた文量は正確に定量してはいないが、およそ初めの一年がいちばん多く、徐々に短くなっていった。(後半に進むにつれて短くなった体感があった、また解説にもこう綴られていた。完全に減少し続けたかはわからないが、減少傾向が認められるはずだ。)

下巻の裏表紙には「ハンスは様々な経験をしながら第一次世界大戦へ突入していく」趣旨が書かれており、期待して読み進めたが、戦争の話が現れるのは本当に最後の最後だけである。

一人の浅はかな読者としては「物足りない」「尻すぼみな」といった印象を受けた。

しかし、魔の山が時間をひとつの主題としたことを鑑みると、これらの印象は間違っていない、むしろ意図的に植え付けられたものだとも言える。

サナトリウムでは日々異なる人が違った体験をしていくものの、一歩引けば毎日同じような時間が過ぎていく。

同じような時間は、過ぎるほどに短く感じられる。

客体的、絶対的、小説の言葉を借りると音楽的、現実的時間と私たちが体感する時間は必ずしも一致しない。

時間は伸縮性である。

これをより詳細に記述するとどうなるのかを読んだ、すなわち高次に理解できたのではないかと思う。

面白かった。


小説の構造

さて、この全”七”章構成というのは、魔の山が踏んだ別の作品からも重要な数字らしい。

解説記事を参照していただきたいが、キリスト教では地獄から天国へ至る煉獄山というものがあるらしい。

これは七階層をもち、七つの大罪に対応しているという。

こじつけとも言えるかもしれないが、章立ては単に事象の区切りをわかりやすくするだけでなく小説全体の構造として意味を与える。

このような示唆があるのが、純文学の面白さであり、また文「学」たる所以だと感じた。

蛇足になるが、前期に履修した講義で「罪と罰」で同様の第◯章第◯節の意味があることを学んだ。
20年余り生きてきて小説の構造の持つ意味を認識したのは、これが初めてだった。



最後までお読みいただいた方がいれば、本当にありがとうございました。


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