見出し画像

#016 「海と夕焼」/三島由紀夫 読書ノート〜「夕闇」=「無常」に対峙する文学

Lectioの純文学の読書会のために,今回初めて三島由紀夫の短編小説『海と夕焼』を選書しました.
忘備録的な感想ノートを書いておきたいと思います.

『海と夕焼』は三島由紀夫の自薦短編集『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫)に収められているものを読みました.

僕にとっての三島由紀夫って,正直言って,かなり難しい作家だという印象になります.学生時代に『金閣寺』を読んで,これはすごい作品だと思いました.何というか比類なき完成度とテーマの異様さが感じられ,これは紛れもない「芸術」だと思いました.

ですが,他の作品や短編小説をたくさん読み漁るというように続いていかなかったなと思います.僕の中での相性として,夏目漱石,芥川龍之介,太宰治,村上春樹というのが軸であり,三島由紀夫はちょっと別の場所にいたわけです.

なんですけど,エッセイなどは比較的よく読んだと思います.『若きサムライのために』『不道徳教育講座』とか,『行動学入門』や『太陽と鉄』などです.エッセイは読みやすいし,言いたいことよく分かるというか勉強になるなあ,という感じで読んだ記憶があります.

あとは三島由紀夫が評価している他の芸術家や,関連している人々にも興味を持つような影響力がありました.例えば,江戸川乱歩を読んだり,澁澤龍彦を読んだり,バタイユの思想を知ろうとしたことを思い出します.

あるいは武士道とか「葉隠」みたいなものを知ろうとしたり,「知行合一」とか「陽明学」という思想に興味を持つきっかけとなったりもしました.あとは演劇の方でも『近代能楽集』とか,寺山修司などの前衛芸術まで興味を持つきっかけにもなったなあ….

そう考えると,三島由紀夫って人は一小説家でありながら,戦後の文化において
一つの三島由紀夫ワールドを構築していたんだなと,僕は三島の死後に生まれて同時代を生きていませんが想像してビビります.


さて「海と夕焼」について書きたいと思います.

まず,特徴的だなと今回思ったのは,この自薦短編集『花ざかりの森・憂国』の中に「解説」として三島由紀夫自身が自らの作品について語っている点です.

当然,読者は三島自身による「解説」を読まずにはいられないし,無視することもできない.なので簡単にいうと三島のガイドに従って作品を解釈することになる.そこにはメリットもあるし,先入観というデメリットもあるなと思いました.

それで三島は「海と夕焼」について何と解説しているのでしょうか.少し引用します.

『海と夕焼』は、奇蹟の到来を信じながらそれが来なかったという不思議、いや、奇蹟自体よりもさらにふしぎな不思議という主題を、凝縮して示そうと思ったものである。この主題はおそらく私の一生を貫く主題になるものだ。

『花ざかりの森・憂国』「解説」/三島由紀夫 より

「一生を貫く主題」と言い切っています.非常に興味深いです.それを踏まえて心して解釈しようという気になりますねえ.


ここで「海と夕焼」のミニマムなストーリーをおさらいしましょう.

鎌倉建長寺の寺男安里は,唖で聾(おし)で(つんぼ)の少年を連れ立って夕暮れ時に裏の山に登ります.
そこで海に夕陽が沈む風景を眺めながら,過去の自分に起きた出来事を母国語(仏蘭西語)で語ります.
故郷のフランスにいた羊飼いの少年安里は,第五十字軍の後の頃,ある時基督に出会い,エルサレムを奪い返すのはお前だと告げられます.
マルセイユに行くと海が二つに分かれて聖地に導くだろうと言われそれを信じます.
安里は他の少年たちを弟子として連れだちマルセイユで向かいます.ですが何日祈っても海は分かれず予言どおりにいかない.
そこに信心深い男が現れて船でエルサレムまで連れて行ってくれると申し出がある.安里は信じて乗船したが,安里を含む少年たちはことごとく奴隷市場で売られてしまう.
安里は売られてインドまでやってきた時,大覚禅師に救われて,のちに日本に来ることになった.
日本で年老いた寺男として暮らしている今も,夕焼を見ながら,一度たしかに我が身に訪れた不思議を思い返さずにいられない.

…ざっとこういうお話になっています.

三島が自ら解説する「奇蹟の到来を信じながらそれが来なかったという不思議」というのは,安里にとって「海が分かれなかった」という経験に対して不思議だと感じる気持ち,なのだと理解できます.

非常に面白いですねえ.
海が分かれなかった,というのは「当たり前」と思うのが,僕にとっての常識ですが,安里にとっては,海が分かれなかったのが「不思議」なのです.この転倒した感じをどう考えるかが作品の仕組みのコアになっているなと思います.

三島由紀夫の解説を再び引用してみましょう.

人はもちろんただちに、「何故神風が吹かなかったか」という大東亜戦争のもっとも怖ろしい詩的絶望を想起するであろう。なぜ神助がなかったか、ということは、神を信ずる者にとって終局的決定的な問いかけなのである。

『花ざかりの森・憂国』「解説」/三島由紀夫 より

三島の20歳の時に日本は敗戦を迎えます.虚弱な体質のためもあり徴兵も免れ,同世代の他の青年たちが戦死をするような状況の中で,生き残り終戦を迎える.三島は天皇の人間宣言にも憤慨したようです.

このような戦争体験は,信じていたもの,神話が現実において挫折してしまう意味において,作中の安里の体験と類似になっています.ただし,三島は作品は「私の戦争体験のそのままの寓話化ではない」と言っています.

三島が言いたいのは,戦争体験や『海と夕焼』に込めたテーマとは「私の問題性」であり,『詩を書く少年』の年齢の頃から自覚されていた問題性だと言っています.

僕はその問題性とは三島の「詩」的な感性の問題だと思っています.信仰の挫折というニュアンスより彼自身が「詩的絶望」という語彙を使っていることからも,それは感じられます.

三島にとっての「詩」とは何なのかという問題は,実は次のLectioの純文学読書会の選書作品を『詩を書く少年』にしたので,その時に考察してみたいなと思っています.


『海と夕焼』の作中の話に戻りましょう.

大覚禅師に付き従い日本へ渡り,寺男として暮らす今の安里は,かつてのキリスト教の信仰を失ってしまったのでしょうか.

「安里の心には今安らいがある」と書かれています.また「安里は自分がいつ信仰を失ったか、思い出すことができない」とあります.「信仰を失った安里は、今はその海が二つに割れることなどを信じない」のだけれど,「今も解せない神秘」としてずっと海が二つに割れなかった不思議について思いを馳せているわけです.

何というかハッキリと信仰を失った,棄教した,価値観が変わってしまったという感じでもない.とにかくあんなに確かに信じていた真実の未来が起きなかったのが不思議だとずっと感じている.

安里の世界観にパラダイムシフトは起きたのでしょうか.本当にシフトしたのかというと微妙だなと僕は感じます.パラダイムシフトを「地と図」の例えで表してみると,安里の場合は奇跡の信仰が「地(常識)」でした.それに対して,分かれなかった海の不思議が「図」の地位にあります.

パラダイム(常識)という「地」があって初めてアノマリー(変異)が「図」として現れる.この場合,海が割れないという現実が(変異)として安里の目には映った.しかし(変異)は(変異)のままあり続けている.だからこそ「不思議」だと感じるのではないでしょうか.

ということはパラダイム(常識)はそのまま変わっていないのです.一時的に「判断保留」となっているだけだと思います.要するに安里には「自己解体」が生じていないのです.

安里の世界観は解体したのではなく,息を潜めて待機している.何かきっかけがあれば復活し,あの時挫折の原因となった現実の方をこそひっくり返すような欲望が潜在していると思います.

なぜそう思うかというと,冒頭の書き出しを考えることでそう思うようになりました.『海と夕焼』の冒頭は次のように書き始められます.

 文永九年の晩夏のことである。のちに必要になるので附加えると、文永九年は西暦千二百七十二年である。

『花ざかりの森・憂国』「海と夕焼」/三島由紀夫 より

この冒頭で,和暦と西暦が併記されるのは何故なのかなと思いました.語り手は「のちに必要になるので」と言いますが,後になっても明確にこういう必要があって付け加えたのだという説明はありません.

僕の考えはこうです.

西暦は主人公の安里の経験して来た十字軍の歴史につながるための情報です.

 時は丁度、第五十字軍が一旦聖地を奪回したのに、また奪い返された千二百十二年のことだった。

『花ざかりの森・憂国』「海と夕焼」/三島由紀夫 より

このように書かれた段落がありますので,まず1つの意味はこの箇所との対応のために必要だったのだと考えることができます.少年の安里が十字軍に合流しようと望むようになった時期が,1212年頃でした.それから時を経て日本の鎌倉にいる安里の「今」が1272年ですから,少年だったその頃から60年後の老人としてある今との時間の隔たりを感じることができます.

そんなに長い時間を経過してもまだ,海を眺めては思い出す「不思議」を感じながら安里が存在している.

でもそれだけでは全ての必然性を回収していないと思いました.もう一つの「和暦」の意味があります.それは三島自身が「解説」で書いていた,「何故神風が吹かなかったか」という言及のうち「神風」に関わる事件です.この言葉は太平洋戦争の時よりもさらに遡って,むしろ「元寇」の時に現れた奇跡のことだったはずです.

元寇(げんこう)は、日本の鎌倉時代中期の1274年・1281年に、モンゴル帝国(元朝)および南宋と高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻である。蒙古襲来等とも呼ばれる。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。

Wikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/元寇#文永の役

ここにあるように,モンゴル帝国による日本侵攻=元寇の最初である「文永の役」(1274年)は,冒頭で安里が鎌倉で海を眺める「今」(1272年)の2年後に起きるはずの歴史的出来事ということになります.

そのことを安里は作中の「今」の時点では知らないのです.ですが,読み手の僕や,読み手の僕が想定する,この作品を書いている誰か(三島由紀夫のような誰か)はそのことを知っています.

言い換えると,安里はこの2年後に,元寇による侵略に対して「神風」という奇跡の力の発動によって日本という国が守られていくのを知ることになるはずです.その事が語られています.

実際の元寇はきちんと武力によって勝利を収めたというのが歴史的な事実のようですが,当時の世間としては「元軍は神風で壊滅し日本側が勝利したという言説が流布した」(Wikipediaより)という風評となったこともまた事実のようです.

安里は故郷フランスを遠く離れて,遠く極東にある日本という国の鎌倉の禅寺にいながら,「元寇」が「神風」によって撃退されたことを知ったら何を思うでしょうか.彼の世界観のパラダイムはその「神風」を(アノマリー=変異)として受け取るでしょうか.それともある意味で「予言」が成ったと確信するのでしょうか.
…僕はその時空間を想像します.作品がそうさせずには置かないと感じさせます.

安里が聖地を目指すきっかけの一つとして「幼い預言者」のお告げを得たことがありました.その子供の預言者が安里になんと言っていたか.次のような言葉でした.

『東へ行くんだよ。東のほうへ、どこまでも行くんだ。そのためには、お告げの通りにマルセイユへ行ったらいい』
 と子供は、さきほどとはまるでちがうおごそかな声で言った。

『花ざかりの森・憂国』「海と夕焼」/三島由紀夫 より

ある意味,幼い預言者の「お告げ」通りになったのです.安里は言葉どおりに結果として「東のほうへ、どこまでも行く」ことになりました.これ以上東に行くことが出来ないほどの東の果ての国に今いるのです.

また「元寇」を率いるモンゴル帝国に対しても全く敵意が無いわけではありません.モンゴル帝国の世界征服の遠征はヨーロッパにこそ向かっていたことを安里は知っています.(「鉄木真の孫抜都」とは,チンギスカンの孫のバツのことです.https://ja.wikipedia.org/wiki/バトゥ

安里は波斯の商人の奴隷になった。さらに売られて印度へ行った。そこで鉄木真の孫抜都の西征の噂をきいた。彼は故国の危急を思うて泣いた。

『花ざかりの森・憂国』「海と夕焼」/三島由紀夫 より

この繋がりと必然性を考えると『海と夕焼』という小さな短編の,静的な佇まいの中に,巨大な世界観の構図が圧縮して内包されていることを感じます.こんなことを仕組むことが出来るのは三島由紀夫という作家の天才故だと思って愕然とします.

この作品にはキリスト教の文明から,モンゴル帝国を含む中華文明,そして日本の天皇制がその神話的な位相から,現実的な軍事力による位相までが重なるようにして対立している構図が見えます.それは古代から作中の1200年代を経て,20世紀の第二次世界大戦後経た現代にまで連綿と続いてきた対立構造なのかも知れない.

そしてもっとも深いところでは,その対立は信仰・神話・文明の土台となるような自然環境やそのローカルな「言語」による構造と対立なのだと思うのです.その意識は三島由紀夫という作家が「詩」という言葉を使って自らの文学の本質を語ろうとする姿勢や,晩年の切腹という行動や「文化防衛論」という思想を語っていた問題意識と深く通じていると感じました.

安里は極東のこの国で「神風」を前にして何を思うのか.いやすでにこの問題を問う場所からは「安里」という登場人物は遠くに消え去っていくように感じられました.僕にとってはただ,三島由紀夫がこの作品を書いている気持ちが如何なるものかという問いになっていくのです.

僕にはどうしても,現実の前で挫折した「詩」の方から始まる,現実に対する復讐劇という姿勢が感じられます.三島由紀夫はこの作品にその志向性を静かに埋め込んでいたのかも知れない.今回そう感じることになりました.


最後にこの作品で,僕が今回最も気になったことについて書いておきたいと思います.何が気になったかというと,3つの「少年」たちについてです.

安里の周囲には「少年」たちが描かれています.それが安里の他者との関わりや環境の手触りのようなものを象徴的に伝えてくるなと感じられました.少年はこんなふうに描かれています.

 少年のほうは、いつも寺へ遊びに来る村童たちから、唖で聾のために仲間外れにされているのを、寺男が憐れんで、勝上ヶ岳の頂きまでつれて行くのである。

『花ざかりの森・憂国』「海と夕焼」/三島由紀夫 より

一つ目の「少年」は,最初から登場する「少年」です.安里と勝上ヶ岳へ登っていく唖で聾(おし)で(つんぼ)の少年です.この少年はその障害のために「仲間外れにされている」わけです.

二つ目の少年はここに描かれている「村童たち」です.彼らは一つ目の「少年」を仲間外れにするような子達ですし,また安里のことも陰では「天狗」と呼びならわすような「悪童ども」です.

三つ目の少年たちは,故郷フランスの少年たちです.「同年の羊飼」や「幼い預言者」,「十字軍の戦死者の子供たち」や「死んでゆく子供たち」です.記憶の中には「少年のころの自分の姿も見える」という,これも「少年たち」の一部ですね.

かれらは粗布の衣の片肌を脱ぎ、少年の白い胸に薔薇いろの乳首を見せていた。殺され、あるいは死んだうら若い十字軍の戦士たちの顔が、海の夕映えに群がり立った。

『花ざかりの森・憂国』「海と夕焼」/三島由紀夫 より

これら三つ目の少年たちは,詩的であり,美しく,純粋で健気でそして果無くも死んでいった子達です.この無念への共感,同情,連帯が安里の世界観をずっと強く繋ぎ止めていく要因になっているなと感じました.

安里にとって信仰を解体させるままにすることは,彼らのような美しくも無惨にも滅んだ少年たちの意義を無下にすることになる.そんな気がするのです.それはエゴイズムの問題というより,彼らへの愛情や慈しみの問題であって強固な価値だなとあらめて感じました.

そして安里はその気持ちやアイデンティティを他の誰とも共有することができないでいます.異国の地において彼の持つアイデンティティは誰にも伝達されることがありません.その関係性を象徴するのが「村童たち」です.彼らは安里の孤独や異物としてあることを感じさせます.

だから安里は耳も聞こえず話すことも出来ない一つ目の「少年」に語るしか無いのです.しかしそれはどこまでもモノローグ(独白)に近いものであって,ダイアローグ(対話)でも共有でもありません.そこでは孤独はより深く沈澱していくように思います.しかしその孤独の中には微かな温もりのようなものも感じられるのです.それは言葉にしてしまえば,自己内対話の可能性のようなものです.

安里がほとんど独白に近い語りを,「故里の中央山地の方言をまじえた仏蘭西語」で語りながら,自己と対話し,「不思議」の謎を解き明かすヒントを探すのだなと思いました.いつか「不思議」の意味は解明されていくのでしょうか.

この安里が唯一話す相手の「少年」ですが,最終的には安里の話を聞きながら眠ってしまいます.そこには時間の経過が表現されていると同時に,安里の中にある見えないものの対立の終息を表象しているようにも感じられます.

例えば,『海と夕焼』という作品タイトルも象徴的な意味が感じられるものです.「夕焼」は安里がかつて信じていた物語,「奇跡の影」,「詩」の象徴です.多くの少年たちが死んでいった血潮の色でもあります.

それに対して「海」は現実の象徴です.あの時「いくら祈っても分れなかった夕映えの海」,現実に直面した「挫折」を表しています.

この夕日と海の色彩のコントラストから,次第に「灰色」へと世界は変容していきます.

しかし安里は、夕焼が刻々に色を変え、すこしずつ燃えつきて灰になるさまから目を離さない。
(中略)
安里の足もとに影が忍び寄り、いつのまにか頭上の空は色を失って、鼠色を帯びた紺に移っている。

『花ざかりの森・憂国』「海と夕焼」/三島由紀夫 より

最後に世界は「夕闇」の中に溶解していく.

鐘の音はゆるやかな波動を起し、麓のほうから昇ってくる夕闇を、それが四方に押しゆるがして拡げてゆくように思われる。その重々しい音のたゆたいは、時を告げるよりもむしろ、時を忽ち溶解して、久遠のなかへ運んでいく。

(中略)
夕焼はすっかり終わった。

『花ざかりの森・憂国』「海と夕焼」/三島由紀夫 より

「深い梵鐘の響き」と共に,夕焼も海も溶解していく「夕闇」とは,仏教的な「久遠」の世界観だなと感じられます.「無常」であり,「詩」も「美」もアイデンティティも自我をも「無」に帰する世界観なのかも知れません.

そう考えると,安里が独り語る相手の「少年」とは,仏教的な「無」を表象しているのかも知れません.そこまで考えて僕は尋ねたくなってしまう.三島由紀夫に,あなたは世界の全てを言葉で飾りつけながら,静かに「無」と対峙していたのですかと.

では,今回はこのへんで.また!

































この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?