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英語とゲルマン民族の歴史『ヴィンランド・サガ』

今回は、英語とゲルマン民族の歴史について書く。

英語の成り立ちを見る時、切っても切り離せないのが、ゲルマン民族の大移動だ。

歴史上何度もあった民族規模の移住は、「大移動」と呼ばれがち。しかし、これは視点による。「大侵入」とも言える。ゲルマン民族のものは、必ずしも破壊をともなわなかったとは聞くが。それでもやはり、多くの血が流れた。

環境の移り変わりや何らかの社会的変化があり、たとえそれが欲望や野望であっても人間の想いがあり、“移動” をしていた。その要因は単純ではなく、常にさまざまな背景が重なっていた。そのため、話は時に非常に複雑だ。

文化の1つである言語は、話し言葉であっても文字であっても、人によって使われるものなのだから、人々の考えや行動(歴史)と運命を共にする。

言語も、生まれたり死んだり・分岐したり融合したり・支配したりされたりしてきた。具体的に見ていくと、そうであったことがよくわかる。

※途中、ヴァイキングを描いた作品『ヴィンランド・サガ』と、宗教の話にも触れていく。


前段で述べたように、以下の2つの時期がかぶっているのは、偶然ではない。

英語の歴史 3区分
古英語時代(世紀~11世紀)
中英語時代(11世紀~15世紀)
現代英語時代(16世紀~現代)

世紀~6世紀:ゲルマン民族の移動 第一波
8世紀~11世紀:ゲルマン民族の移動 第二波

複数のゲルマン民族の部族が、ヨーロッパ全域に拡大することとなった。英語(私たちが英語と認識している言語)の発生や変化の大半は、それに付随して起こったのだ。


アングロ・サクソン

5世紀。ユトランド半島(後のデンマーク)のゲルマン民族であるアングル人とユート人、それより少し南(現在はドイツ)のゲルマン民族であるサクソン人が、グレート・ブリテン島に侵入した。

グレート・ブリテン島には、先住民がいた。こちらはケルト人だ。争いが起こった。アングル人・ユート人・サクソン人が勝利し、定住するようになった。

この土地は、9世紀頃に、イングランドと呼ばれる王国になる。

3部族がグレート・ブリテン島に侵入した時の動き。オレンジ=アングル、緑=ユート、青=サクソン

「アングロ・サクソン」は、アングル人・サクソン人・ユート人のゲルマン系3部族の総称。


古英語

このアングロ・サクソンが話していた独特の言語が、最も古い形の英語なのだ。古英語だ。

「Ængle」アングル人やアングルという土地を表す、古英語。見ての通り、England や English の起源だ。

現代の英語とは大きく異なる。

例1) 古英語の文法には
5つの主格(主格・対格・属格・与格・具格)
3つの性(男性格・女性格・中性格)
などがあった。

例2) アングロ・サクソンは、はじめ、Futhorc(フトルク)という独自のアルファベットを使用していた。

ルーン文字=ゲルマン民族のアルファベット
フトルク=アングロ・サクソン特有のルーン文字

フランク王国

ゲルマン民族のフランク人が、486年にフランク王国を興した。8世紀末には、現在の仏独伊あたりにまたがる大国となった。

800年の「カールの戴冠」(Coronation of Charlemagne) で、ゲルマン人の一派の王が、ローマ帝国皇帝の称号を得た。キリスト教世界の保護者という位置づけで。

この歴史的出来事には、前提があった。フランク王国が、改宗をきっかけに急成長した国だったことだ。

他のゲルマン民族が受け入れたキリスト教がアリウス派だったのに対し、フランクの王が選んだのは、アタナシウス派だった。ニケーア公会議の結果、アリウス派は異端となり、アタナシウス派が正統とされた。この差は大きかった。王妃の信仰にあわせた結果だった、という説がある。

『∴』『Holy Trinity』キリスト教における『Logos』
ある人々にとって重要なポイント。当時も今も
これが 「どっちでもよくない」 人々は大勢いる。 

一方、その繁栄を崩したのは、ゲルマン社会の分割相続システムだった。カールの死後、国は3つに分裂:西フランク・東フランク・イタリア(現在のフランス・ドイツ・イタリア)。

この時代、少しでも弱体化すると、すぐに狙われる。本人たちは、弱体化するつもりなどなかっただろうが、分かれて小さくなってしまった。これが何を引き起こしたか、詳しくは、後ほど解説する。


ノルド人(=ノース人)・デーン人

ゲルマン民族に、狩猟・漁労・造船・航海術を得意とする者たちがいた。この時代この場所における「海での強さ」の重要性、計り知れない。

スカンジナビア半島を主な拠点としたノルド人と、ユトランド半島(後のデンマーク)を主な拠点としたデーン人だ。デーン人とデンマークのように、後に、ノルド人の呼び方もノルマン人になる。※次項で解説

〜〇〇人 △△人と、複数出てきて、こんがらがるかもしれないが。ゲルマン民族の中で、それぞれ、人種(生物学的区分)が違うということではない。「北の人」「未知の人」などからわかるように、誰か目線の他称なのだし。〜

9世紀には、北ヨーロッパ以外にも勢力を拡大。さらに盛んに海へと進出するようになった。交易や傭兵の請負いに加え、海賊行為も行った。ヴァイキングと呼ばれた。遠い海に出ての商売には危険がつきもので、商人かつ戦士でないと、つとまらなかっただろう。

『ヴィンランド・サガ』ヴァイキングの物語。
右:主人公。左:トルケル (実在した人物)。

古英語で「王」は cyning や cyng だった。私たちが生粋の (?) 英語だと認識している king は、ゲルマン民族の言葉なのだ。ヴァイキングのキングも同じ系統なのだろうか……?

ヴァイキングのゲームの映像。仮想体験さえ怖そう。

ノルマンディー公国(現フランス北西部)

9世紀末~10世紀初め。ノルド人は、西フランク王国(現フランス)の北西部で、略奪を繰り返していた。女や子供がイスラームへ売られたりと、悲惨な状況だったという。

西フランクの王はたまらず。定住し土地を守ることを条件に、ノルド人に北西部を与えることにした。

911年「ノルマンディー公国の建国」である。このノルド・ヴァイキングたちと、その家族や親族や子孫は、ノルマン人と呼ばれていく。

当時の様子

物語に見られる史実 ※ネタバレ

『ヴィンランド・サガ』アシュラッド

『ヴィンランド・サガ』のキャラクター、アシェラッドの生まれは、ユトランド半島。デーン人の父親は、酒と女と殺しが好きな “どこにでもいるヴァイキング” 、ウェールズ出身の母親は、その奴隷の一人だった。

物語のこの部分は、史実に基づいていると言える。ウェールズのケルト人は、よそからの侵略に苦しんでいた。アシュラッドやその母のようなケースは、実際にあっただろう。

現代。グレートブリテン及び北アイルランド連合王国 (UK) を日本では 「イギリス」 と呼んだりもする。

幼い頃に見た母の哀れな姿と、彼女が繰り返し語った言葉が、忘れられないアシュラッド。

ーー先祖の大英雄アルトリウスがやって来て、いつか私たちを救ってくれるーー

全てはウェールズを守るため。デンマークを内部から操ろうと、自身が忌み嫌うヴァイキングになり、のし上がった。

苦楽を共にしてきた部下たちに、ついに本音を語る。

アシュラッドが、今際の際に主人公に語った、主人公の「本当の戦い」について。今回の続編という形で、別の回に、また改めて書く。


デーン人がイングランドの王に

デーン人の度重なる襲来を受けた結果、当時のイングランド王が、イングランド内のデーン人を大量虐殺する命令を下した。ヴァイキングでない普通の人たちを、種族くくりで。わざわざ侵攻の口実を用意してやったようなもの……愚行。

デンマーク王のスヴェンは、イングランドに復讐。この復讐には、自分たちの土地をデンマーク軍の拠点にさせるなど、ノルマンディー公国も加担した。

焦ったイングランド王、ノルマンディー公の娘と政略結婚するなどしてみたが、効果を得れず。王は、イングランドを放棄した。

デンマークの王がイングランドの王となった。ところが。そのたった1ヶ月後、スヴェンは逝去。すかさず、前イングランド王が帰還。

スヴェンの次男クヌート王子は、デーン軍を率いて、イングランド襲撃を再開。最終的に、クヌートがイングランドの王に。その後、デンマークの王にもノルウェーの王にもなった。

国々が安定した。クヌートは、デーン人とアングロ・サクソン人を平等的に扱った。


物語に見られる宗教 ※ネタバレ

アシュラッドと亡き母の共通の悲願、
真の君主の訪れ。経験を経て成長したクヌート。
アガペー (神の人間に対する愛) を教わるクヌート。
恋愛の愛や親子の愛とは違う愛があると。
 自分を守って腹心の部下が死んだことと神父の話を
きっかけに、愛の何たるかを悟るクヌート。

ちなみに、この回は、海外のアニメファンからも、高い評価を得ている。作者の「アガペー」に対する理解と表現が、賞賛された理由の1つだと思われる。


ノルマン・コンクエスト

クヌート亡き後、その死を悲しむかのように、デーン人の力は一気に衰えた。実際、意気消沈したのかもしれない。

イングランドに、異なるゲルマン民族の支配が、入れ代わり立ち代わりした。デーン→アングロ・サクソン→ノルマン。1042年、アングロ・サクソンの王が生まれた。1066年、ノルマンディー公国が攻め込み、イングランド王国を征服した。※ノルマン・コンクエスト

ノルマン人が王になってから、イングランドの様子は一変した。アングロ・サクソン系貴族の土地は取り上げられ、ノルマン系貴族に与えられた。強大な王権のもと、厳しい封建社会となった。

歴史家の Marc Morris 氏の著書 
タイムトラベルして見てきたの?という具体的内容。

さらに。イングランド王であると同時に、ノルマンディー公として西フランク(後のフランス)王から土地を与えられている家臣、というねじれ状態。これが、百年戦争の一因となる。


中英語

この頃のノルマン人は、フランス語の一種を話していた。フランス北西部のノルマンディー公国から来たのだから、そうだったろう。

このノルマン人が話していたフランス語の一種が、ノルマン・コンクエスト後、イングランドの支配階級の言語となった。

支配階級の言語がフランス語(の一種)になっても、英語も下層階級で使われ続けた。

第2段階の英語は、12世紀から15世紀まで話されていたもので、中英語と呼ばれる。

中英語時代はさらに2つに分けられる。
初期中英語時代(11~13世紀)
後期中英語時代(14~15世紀)


初期中英語

初期中英語は、フランス語の影響を大きく受けた。このプロセスは、ノルマン化とも言える。

最も顕著な変化は、法律と政府に関する語彙だった。それらに関する言葉の多くが、英語からフランス語に変えられた。

下層階級が使う・法律や政府に関する言葉ではない英語は、全体的に、より単純で規則的なものに変わっていった。


後期中英語

より一層、英語はフランス語の影響を受けた。「アングロ・ノルマン」どころか、フランス化していた。

しかし、このタイミングで、イングランドとフランスの百年戦争が勃発。

公式文書には、また英語が使われるようになったりした。戦っている国の言語を使いたくない場面は、いろいろとあったのだろう。ノルマンディーも失い(フランスのものに戻り)、イングランド内でフランス風を吹かせる意味も、あまりなくなった。

他にも。

中英語の文学として有名な作品に、ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』がある。英語で最初の大作。この作品の人気は、英語の拡散に貢献したといわれている。中英語が、しばしば、チョーサー英語と呼ばれる所以である。

『カンタベリー物語』の 騎士の物語

このように、さまざまな民族・部族が起こした出来事を経て、英語とフランス語は混ざりあっていった。

それでもまだ、中英語も、現代の英語とは異なる。


現代英語

英語の第3段階は、16世紀にはじまり現代まで続く。

ルネサンス(14世紀~17世紀)で再注目された古典は、英文学にも影響を与えた。英語に、多くのギリシャ語ラテン語が借用された。

1611年に出版された欽定訳聖書も、現代英語のつくりに影響した。聖書は、ギリシャ語ラテン語から英語に翻訳されたため、多くの新語が導入された。

北アメリカ大陸東岸が、イングランドによって植民地化されたことで、アメリカ独特の英語も育っていった。


とは言え、その逆の現象もある。

13植民地のはじまりは、ヴァージニア、ジェームズ・タウンから。1607年のこと。

US英語はUK英語に比べて、“シェイクスピア英語” に似ている点がある。『ロミオとジュリエット』『ヴェニスの商人』『ハムレット』などの出版は、1590年~1600年だ。新しい土地にもって行くとして、時系列的には、じゅうぶん可能に見える。本は、一冊でもあれば、多くの人が読めるのだし。

アメリカ的といわれるいくつかの用語は、実際には、アメリカに移住した人々 = 途中で分岐した人々の言語には残った、正真正銘のブリタニア表現ーーだったりするのかもしれない。

映画『 Romeo + Juliet 』

今回の文章は、「英語とゲルマン民族の歴史」をテーマに書いたので、現代英語の情報は、このくらいのボリュームで。おしまいとする。

連続もので、こちらが続き。