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くすぶった怒りは、再び焼べられる時を待つ

プロ雑用です!
今回の震災に限らず、大きな災害が起こると、ボランティア活動については様々な意見が飛び交いますが、とりわけ攻撃的批判を行う人々が一定数存在します。彼らの心の内にあるものは何かを考えてみました。


善悪の彼岸

ニーチェの著作のタイトルで、原題は「enseits von Gut und Böse」です。
これは直訳すると「善悪の向こう側」になります。
前著「ツァラトゥストラはかく語りき(Also sprach Zarathustra)」において彼は「超人」という概念を提唱・解説しています。この超人はMARVEL的なスーパーヒーローではなく、ニーチェが生きた時代には当たり前だった(がその実存性は哲学のなかで常に論争の中心だった)西洋的善悪(キリスト教的善悪)を超えた、真に人間として意思をもった存在として語られています。

ニーチェと超人でAIにイメージ生成してもらったらこんな感じになりました

善悪の彼岸が発表されたのは、1886年。その頃の日本は明治19年。当時の日本は、ご存じの通り急激に西洋化が進み、技術のみならず文化も大量に流入し、価値観のパラダイムシフトが起こっていた時代です。そのときに西洋的な善悪の概念と、それまでの日本(〜江戸文化)の善悪の概念は複雑に入り交じりまじっていきました。

因果応報からの自己責任論、そして諦観へ

善い悪いの話をするときに、日本人から必ず出てくると言っていい考えに「因果応報」というものがあります。因果応報は、よい行いをすれば良い結果につながり、悪い行いをすれば災いが降り掛かる、というような、人の行動の善悪がその結果を決める、という考えです。

一般用語の因果応報は、仏教における「因果応報」を原点としています。
自身の「過去の行い」だけでなく「前世の行い」の結果も我が身に返ってくると説く輪廻転生の考えです。輪廻転生はインドの宗教に受け継がれる概念であり、仏教の輪廻転生はヒンドゥー教から直接的に受け継いでいると考えられます。肉体は滅びても魂は永遠で、生まれ変わりを繰り返すということで、現世で遭遇する様々な幸・不幸は、魂に原因があるという考えです。

身から出た錆、自業自得、自分で蒔いた種、と言った慣用句に代表されるように、特に不幸、ネガティブな結果については自責を促す考えが多くあります。誰も見ていなくても、自分とお天道様が見ている、という考えとともに、因果応報は人々の戒めとして機能します。

戦後、都市部への人口移動と一極集中がさらに加速し、家族形態が村➜一族➜家族と小さく分化していき、最終的には夫婦一組(とこども)の核家族化が進みます。さらに不況のあおりからいびつな形で米国式成果主義が輸入され、また非正規雇用が増加しています。個人主義的な考えが広がった結果、現在では因果応報は「自己責任論」へと変化しました。それは持たざるものたちの「○○ガチャ」「過剰な承認欲求」などにつながり、そういった風潮を個人的にひねくれた諦めと名付けています。

諦めのカタルシスとしての攻撃的批判

ひねくれた諦めは、しばしば善行に対して、攻撃的な皮肉と批判で殴りかかります。「売名行為」「偽善者」という批判はその代表でしょう。

カタルシスとは、心の中に溜まってしまったネガティブな感情を開放(解放)することで、心に存在する重苦しい嫌な気分が浄化されることを意味します。感情が高ぶって涙を流す、愚痴を吐くなど、心の安定を図るのに必要な行為です。

諦観している人々にとって、善行を攻撃的に批判することや、逆に悪行を攻撃的に批判する正義中毒や○○警察といった行動は、こういった諦めのカタルシスとして機能しているように見えます。

すれ違い続ける無関係の人々

コミュニケーションというのは「関係性」で成立しますが、SNSだけのつながりは「関係性が成り立っていない」場合がほとんどです。お互いがフォロワー同士であっても人となりをSNS上でしか知らなければ「無関係」と言っても良いでしょう。ビジネスの名刺交換一度だけ人は知り合いかもしれませんが、SNSのフォローの関係性はそれ以下です。
そのため、そこでのやりとりは厳密にコミュニケーションではありません。ですが、ほとんどの人はSNS上のやりとりをコミュニケーションと「錯覚」してしまうため、いちいち心に引っかかるのです。

SNSに限らず、テレビで流れてくる情報のほとんどは、冷静に考えれば「私たちの生活」にはほとんど影響がありません。自分が新潟に住んでいて、四国のはじめて聞いた町で交通事故が起こった。どうやら老人がアクセルとブレーキを踏み間違えたらしい、ひどい、免許返納すべきだ、…って、本当に今あなたが考えなくてはならないのは、それなのか?
なぜそれがやめられないのか?といえば、それは、カタルシスは快楽になるからです。ストレス発散の快楽といえばいいでしょうか。ちょっと疲れたときに感動する映画を見て涙を流すことで、見終わったあとにすっきりするというアレです。

これがテレビのような一方的なメディアであれば身内の中での愚痴で終わっていましたが、幸か不幸かSNSが広がったことで「気軽に殴れる」ようになりました。

相手を下すことは癖になる

ひねくれた諦めとは、見方を変えれば「くすぶった怒り」です。鬱屈した燃えカスに蓋をしている状態ですから、空気に触れればたちまち再燃します。
ひねくれた諦めは、できない自分の自己否定を、他者への攻撃的批判に転嫁することによって世の中に復讐したいのです。なので、特に関係の無い人々には、不必要なほど暴力的になれるのです。

攻撃すればするほど、そしてそれに大勢の人が攻撃していればしているほど、自分はマジョリティ側と錯覚することができますから、自分が正しいと思い込むことができます。再燃した怒りは、否定された自己を癒やし、相手を屈服させることができれば、その経験は快楽として刻まれることになります。論破ゲームなんてその最たるものでしょう。

諦観とは本来、自分の怒りや欲を手放すことだが、ひねくれた諦めは手放さずに執着しつづける

他者を引きずり下ろしたところで本人は何も変わらないのですが、快楽なのでどうしようもないのですね。こういう輩に出会ったり絡まれたりしたら、関わらずに全力で逃げるのが一番です。

ということで、今日はこんなところで。
それじゃ、また👋


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