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「底無し」の寂しさ

「あなたの持っている寂しさは、他人(ひと)には埋められないよ」

この言葉は、初めての入院の時にベテランの看護師さんから言われたものだ。20歳になりたてだった私には、この言葉の意味は全くわからなかった。

私は、いつでも「誰か」に依存することで、自分の寂しさを埋めようとしてきた。友人・好きな人・教師・カウンセラー・養護教諭。特定の1人を決め、その人に依存した。依存の仕方も言葉で伝えるならともかく、私の場合は自傷をすることで気を引こうとしたり、相手を困らせることで自分への愛情を確かめてきた。いわゆる「試し行為」だ。「境界性パーソナリティ障害」の診断がついたことも、ある。たくさんの人に、本当に迷惑をかけた。あの頃私が振り回してしまった方々にもし会えたら、間違いなく謝罪をする。

閉鎖病棟に入退院するようになると、依存の対象は「病棟の看護師」へと移った。だが、思春期や青年期の患者が多い精神科の女性病棟のナースである。彼女たちは、私の自分と人を傷つける方法に一切動じなかった。入院していた期間、何度も何度も諭された。

「あなたが何かをした時も、していない時も、同じように想っているよ。」
「自傷をされた側は、悲しくなるんだよ。」
「その孤独感は、その寂しさは、本当に自傷でしか伝えられないの?」

自傷をしても、もっと大きなことをしても、彼女たちはその場では淡々と処置をした。そして、時間を少し置いてから、
「今の方法、どう思う?本当は何が伝えたかったの?」
と聞いてくれた。

だんだんと、自傷をする意味がなくなった。言葉で伝えても、彼女たちは自傷をした時と同じくらい、いや自傷をした時よりも話を聞いてくれたから。そして、少しずつ「依存」の苦しみから離れていった。と、思っていた。

前回投稿した「喪失感。」という記事。私は、8年間片思いした彼女に依存していた。そのことに気づいた時、やっと「依存」の苦しみから逃れられた気がした。依存をすること自体が悪いことだとは、一切思わない。でも、私にあったのは「底無しの寂しさ」だ。底がないため、相手がどんなに自分を想っていても疑ってしまうし、試したくなってしまう。それでは、誰も幸せにはならない。

私の持っている「底無しの寂しさ」は、なにで埋められるのだろう。今はまだ、わからない。だが、公園を巡って出会う自然や、音楽は少しだけ私の心の穴を埋めてくれる気がする。

いつか私の「寂しさ」に底ができたらいいな、と思う。
抱きしめられたから、ホッとした。手を重ねたから、安心した。
そんな温かい感情を、感じられるようになれたらいい。

手首に傷があることでしか、自分という存在を主張できないと思っていた数年前の自分へ。
自傷をしなくてもあなたには価値があるし、自傷をしなくても助けてくれる人はいる。そうやって寄り添ってくれる人が、本当に大切にすべき人だと私は思うよ。


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