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私の本の読み方~非効率を求めて~

 私は幼い頃からたくさんの本を読んできた。1日1冊、無いし2冊3冊と読んでいたこともあった。今ではそこまでのペースは維持できていないが、それでも毎日30分は本を読む時間を確保している。
 そうして本を読んでいる中で、私はいよいよ読書というものがなんなのかよく分からなくなってきた。
 たくさん読めばいいのか。冊数は少なくとも学びが多ければいいのか。一部しか読まないのか。全て通して読んだ方がいいのか。読書をしていることはステータスなのか。そもそも何故本を読まねばならぬのか。
 本と向き合う度にこれらとりとめのない思考がちらついて、集中出来たものじゃない。
 という訳で今回は、本を読むということについて考察し、言語化することで私の頭の中を鎮めていこうと思う。

多く本を読むことはステータスなのか


 よく「月20冊本を読んでいます」「年間200冊読んでます」「本を1000冊読んでわかったこと」みたいに、とにかく読書量について言及している人が多いように思う。
 確かに、年間で10冊も読まない人に比べれば、それだけ数多くの本を読んでいる人の話の方が説得力がある。
 しかし、むやみやたらに多読に走ればいいという訳でもないらしい。
「インプット大全」では、月に10冊本を読むよりも、月に3冊、深い理解を示しながら読書をする方が成長に繋がるとしていた。速読や多読よりも、1冊当たりの深い理解度を優先する、「深読」をもっとも重視すべきという主張だった。
 尤も、速読や多読を否定している訳ではなく、「読書に不慣れな人は」という前置きがあった。読書に慣れている人であれば深読の速度も自ずと上がるから、速読や多読でも本の理解を伴う。逆に読書初心者が速度や量に意識を向けすぎるとてんで本の内容に頭が入らず、結果読書の恩恵を受けられなくなるというものだ。
 恐らく本をたくさん読んでいることを公言している人達は、読書慣れしている人達なのであろう。浅い理解でふんぞり返っている自称読書家がそこら中に居るとは思いたくはない。
 さて、これらを踏まえると、全ての本に一定以上の理解を示した上で読書数が多いということは、やはりステータス価値があると言えそうだ。
 だがしかし、読書の重要性が知れ渡りすぎて、「読書」というものが人を飾り立てるための装飾品のような扱いを受けているのが、私としては違和感の塊だ。本が好きだから読んでいるんじゃないんだろうか。有益でない本は読まないのだろうか。
 かくいう私も、他人がどう本を読んでいるかの興味とより本への理解を深めたいという欲求から、読書術みたいなノウハウを知りたいと思うこともある。興味を惹かれない本には食指が動かない。故に他人をああだこうだと批判出来る立場ではない。人それぞれ本との接し方、本への向き合い方がある。
 学歴や資格だって、勿論勉強が好きで好きでたまらず、気付いたらその地位に居ただけという人も居るかもしれない。が、大半は別に好きで勉強して得た立場ではないだろう。それと同じだ。そこに文句を言うだけ可笑しい話なのだ。
 それでもやはり、「本を多く読んでいること=偉い、賢い」という図式と、自分の好きなものを利用してステータス扱いされていることに納得の行かない気持ちの方が強い。

 感情的な話になって申し訳ない。次の話題に移るとしよう。次の項はもしかしたらどこかで手放しに賛同していたかもしれないが、実際の私の心の中は以下の通りである。

本は一部だけ読めばいいのか


 本は頭から最後まで全てを読まなくてもいい。
 最初この論に触れたときは何を馬鹿なことをと鼻で笑ったものだが、方々で同じようなことが言われていることに気づいた。
 目次を見て気になったこと、知りたいことを3つ選び、そこだけ読めばいい。一度に全てを学ぼうとするのは難しいから、「これは!」と思った部分だけ持ち帰ればいい。最初にザっと目を通して大体の流れを掴み、それから気になったところだけを読めばいい。
 言い方や方法はそれぞれあるが、共通して全て読む必要はないという話ばかりだ。なんなら、まえがきに著者自身が「気になったところだけ読んでくれればいい」と述べている場合もある。
 確かに、掻い摘んで読むのは有益だ。
 知っていることは飛ばせばいいし、結局記憶に残るのが一部分だというなら、その一部分を徹底的に頭に入れた方が効率がいい。目次とそこに連なっている表題は簡潔に内容を示しているのだから、利用しない手はない。
 全てはより多くの知識を手に入れるため。そして、そこから得たものを、自分の生活に落とし込むため。であれば、1冊に多くの時間を割けない。一部分だけ読むというのは確かに効率がいい。
 それに全てを読もうとして向き合えず、積読にするくらいなら、たとえ一部分だけだろうが読んだ方が良い。絶対に。積読を習慣にしている私が言うのだから間違いない(誇るな、そんなこと)。
 分かってはいるが、どうしても全てを読みたいと思ってしまうのだ。
 知っていることだと思って読んでいたら新しくよりよい解釈の仕方をしていた。読み飛ばそうとしていた部分に今の自分を楽にするヒントが潜んでいた。興味が惹かれないなあとイヤイヤ読んでいたら徐々に面白さを感じ、最終的に役に立つかは分からないが人に話したい雑学を手にした。
 こんな経験を山ほどしてきた。
 そしてやっぱり、本は全部読んでこそだなと、各方面に逆行する学習をする。
 正直効率は全く良くない。
 けれど私は、効率を求めて本を読んでいる訳じゃない。本が好きだから読んでいるのだ。だから私の読書法は、「最初から最後まで、余すところなく本の魅力を味わおう」という、ただ一点のみに尽きる。

私なりの「本を読む」ということ


 繰り返しになるが、別に人それぞれどんな目的でどんな方法で本を読んだって、それは私には関係ない。この記事の前半も、勝手に哀愁を漂わせているだけの変な人だ。やり場のない気持ちを表現したかっただけで、別に否定はしない。
 ただ、どこかで「自分はこうですよ」という表明をしておきたかった。色んな価値観やメソッドに触れて、なんだか自分が間違っているんじゃないだろうかという気になっていたからだ。
 そしてこの執筆を通して、はっきり分かった。やはり私は間違っている。
 けれど別に、間違いを正そうとは思わない。だって本との向き合い方は人それぞれ。自分にもそれを適用してやればいいだけの話だ。
 私は今日も、非効率的に本を読む。それが私の、本との向き合い方だ。


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