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存在

「人に読まれなければ、あなたの文章は存在していないも同然」
noteを始めてから、この言葉を幾度か目にした。
noteだけでなく、外にもそういったサイトはみられ、人に読まれるには何をどうやって書けばよいかという方法論が語られる。
「読まれるための方法◯選」とか「人が読みたくなる理由◯つ」といった、数字入りのタイトルつきである。

言い方をかえると、「人が読んではじめて、あなたの作品は存在できる」ということになろう。哲学的で一理あるようにも思われる。


だがその言葉を目にするたびに、いいようのない悲しみが、意図せずしてこみ上げてくるのは何故なのか。

――― 人に読まれてはじめて、あなたの作品は存在する。
こうした言葉をまともに受けて「自分が書きたいもの」を「人に読まれるためのもの」と取り替えている人がいるとするならば、信じるようにしてほしい。
人が読んでも、読まなくても、あなたが載せる作品は存在しているのだということを。

それは、「あなたがこの世に存在する」のと同じこと。
自分自身で、作品の存在を信じてあげるだけでいい。


その前に、自分自身が本当に存在するか?という問題はある。親が生んでくれたことや身の回りの現象が、紛れもない現実なのか?という疑いである。実は何もかもが、虚構かもしれないのだ。

そしてそれが虚構であれば、寝ているときに見る夢は何だろう。描く未来の夢は何なのか。
もしかして夢幻のほうが、本当ではないのだろうか?


…宇宙は膨張しているという。
膨張… ということは、宇宙にも境界があるということだ。

地球が属する太陽系は、天の川銀河(直径およそ10万光年)の中にある。
その天の川銀河の中心にはとてつもなく大きなブラックホールがあり、その巨大ブラックホールの周辺に、約1万個のブラックホールがあるという。

天の川銀河は、アンドロメダ銀河など他の40以上の銀河と重力で寄り合って、銀河群(半径数百万光年)をなしている。そしてその銀河群は、また他の銀河群や銀河団とあつまって、超銀河団(半径およそ1億光年)を構成しているのだそうだ。

超銀河団どうしの間には、銀河のほとんど無い空洞領域もあるという。

そういった途方もない領域に、人が辿りつくことは不可能である。
だが人が辿りつくことも見ることもできないからといって、宇宙が存在しないということにはならないだろう。むしろある意味、とんでもなく離れた領域が、人に近しい存在だということだってある。

ちょっと別の見方をして、仮に人が一瞬で百億光年もかなたの領域に無事に辿りつけたとして…その人は存在しているといえるだろうか?

何が存在のあかしになるだろう?

そこまでいくと存在の根拠は、その人が「存在する」と信じる気持ちだけになる。


人に読まれるために、しゃにむに頑張っている方に伝えたい。

たとえ、天文学的な人数に読まれたとしても。
評価をくれたとしても。
さらに、おだててチヤホヤしてくれたとしても、
家族や永遠の友でもない限り、人はいずれ自分のもとから去っていく。

そして、人に読まれるために「書きたいもの」を「書くべきもの」と取り替え続けるのならば、いつか努力が報われるその日まで、自分に馴染まぬ不気味なものが、ページに並んでいくことになる。

静かな宇宙の片隅で、一瞬だけ立ち止まって考える。あとに残るものは何だろう、と。


自分自身が「これでいい」と思って出す作品。
たとえ上手くなくても、最後まで(あぁでもない、こうでもない)と悩んだあげくに出す作品。
自分でその存在と意味を、信じてあげるだけでいい。
それ以外に、何があろうか?


それにしても…

あー、お腹が空いた。鶏唐揚げが食べたいな。

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