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今を生きる人と話す

認知症高齢者のグループホームで働いている時に考えたことの話です。
認知症というと「自分はなりたくない」「身内にもなってほしくない」という恐れの気持ちがありました。だからこそ介護の仕事をするならまず「認知症」というものを知りたいと思って最初にグループホームを探しました。
いくつか探している中で、ある管理者から「認知症になっても、その人らしさはなくならない。絶対に」という言葉がとても印象に残り、私はそこで働き始めます。

働き始めて、最初に感じたのは「あれ?思ったより穏やかな人ばかりだな」ということ。今にして思えばケアがしっかりしていれば大抵の人は穏やかに暮らせるということなんだと思います。暴言や暴力、ひどい妄想などは本人の悲鳴のようなもので「助けてくれ!」と叫ぶほどに困っているということで「本人にとって」適切な「不安の除去」ができれば、その人らしく穏やかに暮らせます。もちろん昭七さんのように元々の性格が横暴で怒りっぽい人も、もちろんいましたけれど。

認知症と言ってもいろんな原因、色々な現れ方をするので一概には言えないのですが、ここでは一般的に目にする機会の多い「短期記憶」が保てない方の話をします。短期記憶が保てないということは、昔の記憶や人格自体はそのままなのに「さっき言ったこと」「今日食べたもの」「今日経験したこと」を忘れてしまうということです。結果として日常生活を送るためには信じられる人が代わりに記憶しておかないとさまざまなトラブルが起こります。トラブルが次々と起こるのに原因を本人は忘れてしまうわけですから、本人にとってもさぞや怖いことだと思います。
グループホームではその部分をケアしていくわけですが、最初は自宅から離れて施設に入居し、入居した理由も自分では覚えていないわけなので「自分がなぜここにいるのかわからない」「今が、大体、何時くらいなのかの見当がつかない」「今、私と話しているこの人は誰なんだろう」ということがまず本人にとっては不安になります。不安になるから「帰りたい」と思いますよね。それが「帰宅願望」と記録に書かれてしまう現象ですが、短期記憶がなくなれば誰でもそうなりますよね。ここで自分が暮らしている(理由はさておき)ということに慣れていけば(どうやら危険はない)という状態になれば穏やかになります。数分間、記憶が保てる人であれば、会話自体を楽しむことができます。同じ話を繰り返すという状況は、たいていの場合、本人に不安や不満があり、その気持ちが解消されていない時に起こります。
不安や不満が解消できる種類のものであれば適切な声掛けによりループは止まります。本人が感情的な不安や不満がない状態であれば穏やかに、ごく普通に会話が楽しめます。今、この瞬間においてはまさに認知症と診断される前のその人そのものなので。つまり認知症の人と話すときには「今」「この瞬間」に集中して会話をすればまったく普通の人と変わらないのです。そのことに気づいてからは私は「今」「この瞬間」に集中しようと意識して取り組んだのですが、なかなか難しいもので、ついつい先回りをしたり、過去に囚われてしまったりしてまう自分に気付き凹みます。
ご本人の短期記憶の保たれ方が1分を切ってくるとだいぶ会話は支離滅裂にはなってきますが、それなりに会話が楽しめます。その後、少しずつ言葉で気持ちを伝えることは難しくなってはきますが、長く一緒に過ごしてきた職員には気持ちは伝わります。気持ちはなんとなくわかりますが、もう会話は難しいです。
ところが、言葉が支離滅裂になった後でも、支離滅裂になった同士では会話が成立したりするのです。非常に奇妙な光景ですが、ソファーに並んで座って、楽しそうに、時には親身になっている様子でお互い文章になっていない言葉で会話をしているのです。側で見ていて本当に通じ合っているように感じられるのです。その後は段々と言葉が減り、発語自体も減っていきます。
語弊があるかもしれませんが赤ちゃんに戻っていく感じです。認知症の方はゆっくりと時間をかけて丁寧にこの世界を去っていくように私には感じられました。だからなのかグループホームで私が経験した看取りは皆、穏やかなものが多かったです。

今を生きる人と話すことは、私にとっては学びが多かったです。これも多くの人に知って(体験して)欲しいです。


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