第六回 何で誰も教えてくれないんだ!

 前の投稿から、この投稿までに、実は記事を1つお蔵入りにした。4000字という、今までにない長さだったのだが、その分何か、書いたことと自分の伝えたいことがずれてしまっていた。「随筆」というように、ただ筆に従って思うままに書いていると、時々着地点がわからなくなってくる。思いもよらない結論に到達するのは、それはそれで面白いのだけれど。

 さて、今回はある心の叫びについて書こう。


クリスマス鍋

 遡ることこの前のクリスマスイブ。私は生まれてこの方彼女がないことは既に述べた通りで、常にクリぼっちだなどと自虐をしていたのだが、家族とも離れて過ごす、更には翌々日にテストがあったので友人のところにも遊びに行けないクリスマスは初めてであった。

 クリスマスには関連商品の値段が上がってしまう、正しいかどうかわからないこの直感から、私はスーパーで安いケーキを買いつつも、ジュースはシャンメリーではなく値下げ品の野菜ジュースを買った。(写真撮ってXにポストするとき、値引きシールは全力で隠した。)

 しかし、せっかくのクリスマスなのだから、何か贅沢がしたい。そう考えた私は、数日前の鍋を思い出した。あごだし、牡蠣、白菜、春菊で作った鍋。とても満足したのを覚えている。よって鍋の具材を買って用意した。

 いざ鍋を作るにあたって、ご飯を炊き忘れたことに気づいた。まぁ、乾麺のうどんがあるからいいか。そう思って、沸騰した液体だし750gに、乾麺450g、白菜、春菊、冷凍水餃子を鍋にぶち込んだ。

 液体だし750gに対して、乾麺450g。勘の良い人ならもうお気づきだろう。結果、鍋から白い気体が出てきた。あれ、湯気ってこんなに白かったっけ?なんか焦げのにおいがする。これ、煙?

 鍋の底にこびりついた黒い塊。多少焦げることは予測していたが、その大きさは想定外だった。でも、まぁ、味は…(以下、逆飯テロ注意)

 さぁ、お玉ですくって食べてみよう。ひときわ目立つのは大量のうどん。さらにところどころ黒い粉がついていた。これは煤(すす)ですか?食べてみると、うどんがだしを最大限吸っていて、とてもしょっぱいうえに、煤の味はとても苦い。まずいだけならまだしも、段々とこれ以上煤を食べてはいけない気がしてきた。結局、鍋1つ分捨ててしまった。

 今まで自炊で腹を壊したことは数回あれど、ここまでの失敗、それも大量に食べ物を粗末にする失敗をしたのはこれが初めてだった。翌日、食材への贖罪意識から、自ら食べるご飯を最小限にして、ひもじい思いをした(まぁ、これは私が勝手にやったことです)。

 何でこんな目に、よりにもよって何でクリスマスに。しかし、湧いてきた「何で」という疑問の中で、一番大きかったのは、何で少ない水分量でうどんをゆでると鍋底で焦げて煤だらけになるって、誰も教えてくれなかったんだ!ということだ。

何で誰も教えてくれないんだ!

 そんな疑問、自分の失敗の責任を他人に押し付けようとしているだけだ。わかっている。しかし私には、どうも常識が抜け落ちている、というか、誰もが生活の中で自然と身につける感覚を、身につけられてない部分があるようだ。

 これがわかったのは、段々と身についてきた、否。知識として覚えて補ったからである。例えば、「食品を冷蔵庫で保存すれば常温よりも長持ちする」、あるいは「食べ物を常温のまま置いておくと傷んでしまう」という常識があるだろう。私も、食べ物を冷蔵庫で保存することは知っていたが、その意味はよくわからなかった。

 その意味が分かったのは、高校2年生の化学で反応速度について習った時だった。化学の先生が、

「温度を上げると、化学反応速度が上がる。だから食べ物を冷蔵しておくと長持ちする。」

ということを言っていた。

 そこで私ははっとした。そうか、長持ちするから冷蔵庫に入れるのか!今までなぜか誰も教えてくれなかった。いや、教える必要もないと思っていたのだろう。私もなぜか、疑問に思うこともなかった。

 これくらいならいいのだが、私のこの性のせいで、少々失態を犯したことがある。

引用、その心は。

 同じく高校2年生の時。学校にて、あるグループ数人で集まっていたとき、こんな話題が上がった。

「共通テスト国語って難しいよなー。」

私もあまり得意ではなかったのだが、ここで現代文の先生の言葉を思い出した。

「『センター国語を難しい』ていう人がいるけど、馬鹿じゃないの…って思います。」

そこで私は言った。
「○○先生が、『馬鹿じゃないの』って言ってたよ。」

 場に沈黙が生じた。もちろん、私は相手を傷つけるつもりはなかったし、共テ国語は難しいと思っていた。ただ、あの先生が言っていた、という情報自体に価値がある、と思って発言したのだ。

もしその場に居合わせた人でこれを読んでいる人がいるなら、謝罪をしたい。
現在でも時々思い出しては反省している。

 しかしなぜこんなことになってしまったのだろうか。それは、コミュニケーションにおける引用や例示というのは、その情報自体に価値を置くものではなく、自分の意図を伝えるために行うものである、というのを高校2年生にして知らなかったのである。

トマス・アクィナス

それを理解したのは、あの出来事から1か月くらい経った頃、トマス・アクィナス著 柴田平三郎訳『君主の統治について:謹んでキプロス王に捧げる』(岩波文庫)という本を読んでいたときのことである。


高校の図書館で借りた。

 これは中世ヨーロッパの文献で、国をいかに統治すべきかを神学者トマス・アクィナスが著したものである。古い文献ながらも、食料自給率の大切さが説かれているなど、とても興味深い内容のものであった。

 本題に戻ろう。同書の巻末解説において、トマスを始めとして中世の学者たちが、古代ギリシアの哲学者アリストテレスなどの文献から”自説を補強するために”引用していた、というようなことが書かれていたように覚えている(うろ覚えである)。

 そこであの出来事とつながった。そうか、引用は、さらにはコミュニケーションというのは、自分の意図を伝えるためにあるのか。

 中世ヨーロッパの文献から著者も解説者も絶対に意図していない収穫を得てしまった。

知識で補う

 前述したように、私は、他のみんなが成長の過程で自然と身につけるものを、「知識として補う」ことによって何とか身につけている。

 だから、意外とまだ身につけられていないことがあるかもしれない。それが何なのかわからないから怖い。当たり前すぎて親も友人も教えてくれないことだから…。

 また、誰かを傷つけてしまうかもしれない。

意外と私だけじゃないのかも。

 例の件と同じグループにて。こんなこともあった。

 会話の中で、ある友人がこんなことを話した。

「日本の大学ランキングでは、○○大より、□□大の方が評価が高いね。あの大学は国際性も高いし。」

別の友人が言った。

「いや、日本の大学は、日本の為にあるのだから、国際性はあまり関係ないんじゃない?」

 最初の発言者と私は沈黙し、他の皆は程度の差こそあれ賛同していた。

 私も、後者の発言に一理はあると思う。けれど問題なのは、前者は外国系の出自だったのだ。

 後者や賛同者に悪気はなさそうだった。けれど結果として前者の気を悪くしてしまったかもしれない。(幸い、グループ内の仲は今も良好である。)

 今まで他のみんなに身に付いている感覚を私が身に付けられていないように書いていたが、私が当たり前に身につけた感覚の中で、あまりみんなが身に付けられていない感覚があるのかもしれない。

感覚を大切に。

 結局のところ、「自然」と身につけるべき感覚は、単なる個人の中の尺度に過ぎないのかもしれない。人との関わりの中で、他人の尺度が自分のものと違っても、自分の感覚を卑下することなく、自分が良いと思った相手の持っている感覚を、知識として補えばいいのではないだろうか。

 今回はこれくらいにしよう。

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