人生はカフェ・ラテ
はじめに
わたしは村上春樹が好きだ。そのため、名言っぽいものはいくつか、村上春樹の著作から引っ張ってきていると思ってほしい。
カフェ・ラテとは
エスプレッソとミルクで作った飲み物で、ラテアートなんてものもある。
この世界にはたくさんの矛盾がある。
例えば、愛玩動物にする生き物がいたり、食べていい生き物がいたり。
人それぞれ生まれついての性質があるのに、漠然と勉強ができるということはイメージがよかったり。
企業はクリーンなイメージを求めるが、わたしは精神障がい者で、それを隠さないと就活は不利になってしまったり。
「アダムとイブは知恵の実を食べてしまい、楽園を追放された」
というのは有名な話で、筆者はそれくらいの認識だった。
しかし、最近調べてみて、さらに詳しく言うとアダムとイブが食べてしまったのは「善悪の知恵の実」だったらしい。
なんてことをしてくれるんだ。
アダムとイブが知恵の実を食べた罪を、善悪の概念という罰を受ける形でわたしたちは贖い続けているのかもしれない。
もはや、罰というか、呪いなのか、、。
善悪というのはたくさんの矛盾をこの世界にもたらしている。
「人間というのは遺伝子のキャリアに過ぎない」という生き物的な部分
「それでも善悪を持っていなくてはならない」という部分
この矛盾に押しつぶされたり揉まれたりして生きてきたのだな、と感じる。
そして、文明というものは発展するほど善悪に押しつぶされ、病んでいくのでは、と思った。
インスタグラムでかつての仲間たちは健全に生きている。
結婚したり、結婚したり、出産したり、結婚したり、おいしいご飯を食べたり、旅行に行ったり。
健全な自分を、病んでいない自分をインターネットに作り出したい人は多い気がする。だからこそ、昨今のSNSの盛況を感じる。もうテレビというものはSNSでの盛り上がりを輸入するだけの媒体に成り下がってしまったのではないだろうか。
逆に病み垢というものもあったりして、病んでいる自分をインターネットに作り出してセーフ・ハウスにしている人もいるのかもしれない。
突然だが、夫婦という制度がある。
わたしは、そもそも、夫婦という制度そのものが病んでいるのではないのかと思う。
自分らしくいきることと、パートナーと善悪をもって生きることは、時として、相反したことであると思う。この世界では、夫婦という制度は祝福され、推奨されることになっている。しかし、離婚率は高く感じる。
これは自分らしく生きること、ちゅ。多様性な世界が推奨された結果なのではないだろうか。善悪の中で肯定されているから選択するけれど、じぶんらしさの追求には邪魔になる制度でもある。
わたしたちは生まれたときから洗脳されて育つ。憧れとは洗脳の延長でもあると思う。洗脳という言葉を使ってしまうと悪というニュアンスが強いが、クレしんの野原一家に洗脳されない平成生まれもなかなかいないのではないだろうか。
うだつの上がらない部分もあるがやさしい父ちゃん
子供を叱りながらも共にある母ちゃん
個性満点のわんぱくな子供たち
かしこいペット
一軒家と普通車
均衡そのものが善なのではないだろうか。だから、風が吹いたら簡単に変わってしまうのに、それに”みんな”は合わせている。みんなという妄想のマジョリティは。
わたしは、会社員をしながら月に二回通院している。迷惑な話だな、と思うがそれはわたしの歪んだ善悪の話でもある。
この間主治医に聞いてみた。
「わたしは”疾患”の治療として先生のところに来ていますが、自分のことをとても理解しています。わたしはその辺の人より健全なのではないでしょうか」
「そうなんですよ、それは医師の間での共通認識です」
「わたしたちのまともなところは、自分がまともじゃないってわかっているところよね」
というセリフがある。
わたしはそれでいいんじゃないかと思うのだ。
病んでいる自分。健全な自分。
エスプレッソな自分、ミルクな自分。
そうやってカフェ・ラテな自分を「認知」していることが大事なのではないだろうか。
わたしは小説家を目指している。
いろんなキャラクターが器や、ミルクや、エスプレッソとなって、主人公というカフェ・ラテになっていく。
こんなに面白いこと他にあるだろうか。
わたしは、医者と約束したことがある。楽しく生きて、これからは、ラテアートを作っていこうということ。
人生はカフェ・ラテだと、今日のわたしは思った。
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