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祖母への明治の手紙 初かりがねの空寒く・・・オッペケペあばよ

祖母は、日本橋区田所町19番地に田中家の三女として明治18年に生まれた。戸籍の名前は、セイとあるが、後年「晴」の字を当てて「はる」と呼ばれた。親しい人たちからは、おはるさんと呼ばれていた。実家は大工だったと聞いている。三味線等の芸事は習わずに算盤と書道を習わされた。これからの世で必要になるのは読み書き・算盤というのが父親の教育方針だったらしい。幼なじみと交わした手紙が今に残っているのもそのおかげだったと思われる。

これは、幼なじみの松本こと子(田所町19番地)からのユーモラスな手紙である。オッペケペー節を真似たものか最後に「オツペケペあばよ かしこ 平平平平(シラタイラヘッペイ)ゟ(より) おはるちやんヱ」とある。オッペケペー節は、川上音二郎が明治22年に作詞し、「オツペケペ。オツペケペツポー。ペツポーポー」と軽妙に歌い流行した。

手紙には、祖母が生まれ育った田所町の町名が書かれているのが親しみを感じる。文明開化を象徴する面白い言葉が並んでいる。「写真と共に二人つれうつす新造のたへまなく」と若い女性が写真を撮る様子が浮かんでくる。ビヤホールがあり、キリン、ヱビス、札幌ビールが提供されていたようだ。海外の都市ロンドンに対して日本の代表富士山、食べ物は「すしはすい物うまひ物」と寿司がみなの好物なのは今と変わらない。魚は「鯛に鰹魚めじまぐろ」、野菜果実は、みかん、いちご、さつまいも、とうなす(トマト)、とうがんと当時食卓に上がった食品が並ぶ。「てつぺんかけたかほととぎす、松虫鈴虫ちんちろりん」は、今に残る表現が調子よい。

田所町は、堀留町の椙森神社の人形町通りを隔てた向かい側で、現在、南西角にセブン・イレブン、その隣にカフェ・ベローチェがある。19番地の祖母の家は、その辺りである。近くに江戸時代から続く大丸(通旅籠町)があったが、明治43年に閉店した。国立公文書館がウェブ上で公開している『明治東京全図』(明治9年刊)を見れば、田所町19番地の場所は容易に分かる。

今の人たちがメールやラインをやりとりし合うように、友だち同士で手紙をやりとりすることが明治の若い女性たちの楽しみだったようだ。そんな乙女たちの交歓の様子が偲ばれる手紙である。

(封筒表) はる子様 御許え
(裏)  寿 まつ本こと子ゟ 四月十六日
(本文) 初かりがねのそらさむく」ややあつさもうすらぎて」あいきょうをあをぐ扇の」末廣く沖風きよく朝日」かげいさみのはだの田所町」隅にひとりの色男愛嬌あ」つてほどもよくぼたんあ」やめと咲き初めて写真と共に」二人つれうつす新造の」たへまなく鼻白(皐月)の」静かのはつかつをてつぺん」かけたかほととぎすすしは」すい物うまひ物あつさに」よいのがビヤボールキリンヱ」ビスや札幌やロンドン異国の」大みなととさんするのが」ふじの山ヱゝ鯛に鰹魚」めじまぐろさあ一けん」もう一けん当りが有って」はづれなし松虫鈴虫」ちんちろりんとんぼげじ」げじのみしらみみかん」いちごにさつまいも芝居」とうなすやこんぶやくとう」がんやぢいさんばあさん」あぶないよ新造年まに」下女おんば皆さんごらんよ」オツペケペあばよ」かしこ」平平平平(シラタイラヘッペイ)ゟ(より)」おはるちやんヱ」







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