見出し画像

読書感想#24 【ジル・ドゥルーズ】「ニーチェ」

 哲学の根本は、生が思想を能動化し、また思想が生を肯定するという、いわば生と思想とを統一する力にあります。しかし一般的に哲学といわれる場合、それはむしろ思想が生を裁き、より高い価値という如きを生に対立させようとするものであることが多いのはいうまでもありません。故に生はそれらの価値に応じて測定され、また限界づけられ、そして断罪されるのです。ここでは思想は否定的なものとなり、同時に生の価値は下げられます。そしてもはや私たちは能動的であることをやめるのです。


 これはいわゆる、能動的な生に対する反動の勝利であり、肯定的な思想に対する否定の勝利といわれるものです。ここではただ、生の反動的な諸形態と、思想が有する、告訴するのに適した形態のみが認められるのです。

 しかし元来、否定と肯定というのは「力への意志」の二つの質に他なりません。「力への意志」というのは即ち、相互の差異によってのみ成り立つ示唆的な境位であって、例えば、より強い力は制圧し、別の力は服従するように、また私が意思する時、私は命じる者でありながら同時に服従する者であるというように、相反する二つを内包する重層的なものなのです。


 しかし一般的に流通している哲学というのは、否定の方を勝利へと導いてしまっています。故に「力への意志」は肯定ではなく否定となり、作り出すことをやめて、欲するように促してしまうのです。もちろんこのような「力への意志」というのは畢竟、奴隷以外の何者でもありません。本来「力への意志」というのは、手に入れることに存するのではなく、むしろ作り出すこと、与えることでなければならないのです。


 これまでに流通してきた、一般的な哲学というのは、否定的なものが「力への意志」の形態であり、そして基底でした。故にここでは肯定は二次的なものとされていました。しかし「価値の転換」に於いて今、肯定は「力への意志」それ自身にならなければならないのです。なぜなら肯定とは意志の最高の力であるからです。では何を肯定するのか、それは今まで否定されてきたものをです。即ち生成と多様性です。この肯定に於いて、生成は生成として肯定されるようになり、また肯定はそれ自身を生成するようになるのです。


 この肯定に於いて、私たちは偶然をも対象にすることが出来るようになります。偶然の諸断片、偶然の諸要素。そして実はこの肯定から必然が生まれるのです。それはいわゆる偶然の必然であり、即ち永遠回帰です。


 ここで回帰するのは生成の存在です。即ち単なる同一なものの回帰ではありません。もとより同一なものというのは、種々異なるもの以前にはあらかじめ存在しないからです。永遠回帰は同一なものの回帰ではなく、むしろ回帰することに同一性があるのでなければなりません。そしてこの永遠回帰というのは、道徳を全て脱した意志が自律へと至るための、一つの法則を私たちに与えてくれます。私が何を欲するにせよ、私はそれが永遠に回帰することもまた欲するような仕方でのみ、それを欲するよう性格づけるからです。ここでは生半可な意志というものは全てふるい落とされます。一度だけという条件で私たちが欲するようなものは全てふるい落とされるのです。一方で、たとえ臆病、怠情ではあっても、それが自らの永遠の回帰を欲するとするならば、それらはたちまち能動的なものとなり、肯定となります。要約すれば、永遠回帰に於いてはただ肯定されることが可能なものだけが回帰し、全て否定されることがあり得るものは、永遠回帰の運動によって追い払われるということなのです。これによって私たちはいよいよ、哲学の正しい位置を定められます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?