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読書感想#22 【ロラン・バルト】「零度のエクリチュール」

 政治的エクリチュール、文学的エクリチュール、詩的エクリチュール、古典的エクリチュール、そして零度のエクリチュール。このようにエクリチュールは既に多岐に渡り、もはやこれは斯く意味であるという風な論調は許されません。これは単なる概念や用語ではなく、考察が考察を呼ぶ一つの人生なのです。歴史がナポレオンという人物を指し、また原爆投下という事件を指し、哲学という方法を指し、センター試験という学力査定を指しながらも、決してナポレオンという人物が原爆投下という事件ではないように、またセンター試験という学力査定がナポレオンという人物ではないように、エクリチュールに対応する唯一の意味というものも存在しないのです。エクリチュールを説明するということは歴史の全容を説明するに値します。もちろんそれだけの力量など私にある筈もありません。しかれば一体私には何が残されているのか、強いていうなれば、それはロラン・バルトのエクリチュールを粗削りし、切り刻み、磨き上げ、取り付ける、いわば職人的エクリチュールという選択です。それ以外には沈黙のエクリチュールという他ありません。即ちこれは私のエクリチュールなのです。

 私のエクリチュールは、私の発する何かを意味しません。丁度それは私の話し口が、その内容と同時に私の立ち位置、即ち性格や思想、経験や地位等をも表すような仕方で、私の意図と私の背景とを社会と実存の両面から指し示します。そしてその指し示しというのは、もちろん単なる社会的伝達でもなければ個人的表現でもありません。むしろその深層、即ち歴史即自覚であります。観るものから作るものへ、そして作るものが却って観るものとなり、観ることが同時に作ることである、これが私のエクリチュールの機能なのです。

 作られたものから作るものへと移るにあたり、私は選択と責任を得ます。しかしその選択はエクリチュールそのものには及びません。エクリチュールは畢竟自覚されるもの、即ち歴史によって打ち立てられるものだからです。しかしこれは単なるエクリチュールによる拘束を意味するのではありません。歴史という響きから過去のみを連想すれば確かにそうとも考えられますが、歴史はもちろん過去だけを意味するのでなくして、また未来を含むものでもあるからです。即ち未来のエクリチュールと過去のエクリチュールにおける確認と持続が、現在として私のエクリチュールとなるのです。

 私のエクリチュールは歴史の自覚であるが故、常に実存の連帯的です。それは個人と社会との間の関係であり、社会的用途によって変形され、人間的意図において捉えられます。私たちは確かに緒現象や偶発事によってへだてられてはいますが、それでも同じ志向性を持ち、形式と内容について同じ考えに準拠し、同じ秩序の約束事を受け入れるのです。仮に時代の違いによって少しは改変されようとも、位置や用法は何ら変わらない、この同一の道具を私たちは同じ仕草で使います。即ち私のエクリチュールは実存協働なのです。


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