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助けを求める才能が皆無であることについて

これはコロナ禍以前の話。風邪気味だった私はマスクをして仕事をしていた。喉が痛かったので、こっそり飴をなめながら。周囲が黙々と仕事をする中でのこの行為は、私に微量の罪悪感と背徳感をもたらした。誰にも気づかれていない中、甘味が喉に染み渡る。

しかし、突然悲劇がやってきた。飴が喉に詰まってしまったのだ。息んでみても、空咳をしても飴は動かない。

…まずい、死ぬかも

過去に、「正月に餅を詰まらせる老人」に対して、何故と思う事が多々あった。ゆっくり噛んで食べれば問題ないのでは、と少々冷めた見方をしていた。

しかし、今自分は喉に飴を詰まらせている。餅を詰まらせるよりあり得ない状況だ。別に飴をがっついて食べたわけではない。それなのに、飴は口中を滑って喉にするりとはまってしまった。

飴は喉から動かない。しかし、私は周囲にその窮状を伝えることが出来なかった。

「仕事中黙って飴をなめていましたが、喉に詰まってしまいました、助けて下さい」

そう言葉で伝えることも、身振りで伝えることも出来なかった。多分、物理的には可能だったと思う。でも「恥ずかしい」という思考が邪魔をして行動を起こす事が出来なかった。

マスクの下でむぐむぐ怪しい動きをすること数分、飴は無事胃の中に落ちていった。とりあえず、命の危機は脱した。周囲の人は、私が窮状に陥っている事に気づかなかったと思う。焦った。恐ろしいひと時であった。

むかしむかし、こんな話を聞いた。とあるおばあさんが交通事故にあった。救急車が到着し、病院に搬送しようとしたが、おばあさんは大丈夫だからと言って断った。しばらくして、おばあさんは息を引き取った。後に周囲は、何故病院への搬送をおばあさんが頑なに拒否したのか知った。おばあさんはその日おじいさんの下着を着用していたのだ。

これは子供の頃に聞いた噂話なので、真偽の程は確かではない。でも、私もこのおばあさんと同じ、命の危機よりも羞恥心が勝ってしまうタイプのようだ。

私はコミュ障で人と関わる事が苦手だ。仕事でも人にお願いするくらいなら自分でやってしまおうという傾向が強い。そして、モヤモヤした気持ちも一緒に溜め込み、プライベートの領域まで引き摺る。

世の中には人に助けを求める事を、いとも容易く、ナチュラルに行える人がいる。正直羨ましいと思う。生きていく上で必要で大切な才能のひとつだ。でも、どうやら自分にはその才能が欠けているらしい。声を上げる前にプライドや羞恥心が勝り、タイミングを逸し、好ましくない結果を導いてしまう。

この性分は中々直せない。今後も大抵のことは自分で何とかしていこうとするだろう。でも、せめて命の危機を迎えた時は素直に「助けて」と言えるようでありたい。そして、飴をなめる時は最大の注意を払っていきたい。




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