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もう限界?資本主義が私たちに与えてる思想のカラクリ。

こんにちわ。Saraです。(*^^)v

近頃の私は、スイートポテトに嵌っていて、2日に一度は3時のおやつのお供になってくれている。秋の味覚は目移りするものが多くて、次の日に体重計に乗るのが怖くなる(笑)

 今日は、私たちの心に大きな影響をもたらしている経済思想の資本主義をテーマに取り上げたい。

なぜこの題材を取り上げようと思ったかと言うと、経済思想は、私たちの社会システムだけではなくて、人間の思想価値観の核の中心までにも及んでいると気づいたから。

 社会の片隅で苦渋な思いに駆られている人々も、もともと現代日本の集団的意識から生み出されている価値観に、自分が当てはまっていないと感じていながら、孤独に苛まれているかもしれない。私こそ、その独りだったのだ。どうかその人たちが少しでも心の荷物を下ろせるのならという思いで、筆を執ることにした。


資本主義を分解して、考えてみた。

 日露戦争後の1910年ころに資本主義社会に切り替わっていった我が国。鎖国が解かれてからの日本は、とにかく世界の領土獲得争いの渦に巻き込まれながら、この国をなんとか植民地化させないために、先進的西洋文化・文明・思想から多くを学び取ろうとしたのだろう。それがやがて、世界戦争の終戦を迎え、アメリカのGHQの支配下の中、気づかれないような巧妙な手法の罠にかかり、日本人は、どんどん日本人の民族性の誇りや思想基盤を見失っていく。

その中の一つが、私は資本主義なのではないかと感じている。なぜなら、資本主義が優先するものは、当然ながら資本だからだ。
もともと資本を分解すれば、一般大衆のたゆまない「労働力」の結晶で出来ていて、それが生み出す「生産物」に付加価値を付けて、資本家に還元していくもの。

 ここで、注目したいのは資本主義が「労働力」と「生産物」に、あまりに優位性を持たせている主義であることだ。資本に還元されるモノが最重要視されるので、「生産物」を「消費」するサイクルが著しくなり、人間は、やがて何を大切にしたらいいのかわからなくなり、思考する暇もなく、次から次へと「生産物」を生み出す「労働力」を提供する日々に、人生の大半の時間を持っていかれてしまう。

 資本家やこの世界の仕組みを作る側の人々を覗いて、この「労働力」を使って何かを生み出せない人間は、社会において自分の価値を感じにくくさせてしまうことに、私は戦々恐々としてしまう。(´;ω;`)ウゥゥ
だからと言って、マルクス主義はその極点から反対側にいる極点に感じられる。平等な分配とは何か?ということをあまりに画一的に捉えたのではないだろうか。


日本における元来の主義とは?

 国の理念・主義というのは、私たちが感じている以上に、著しく影響を食らってしまう。資本主義は、競争という形で物理的側面に潤沢をもたらしたのかもしれないが、その一方で、競争から漏れてしまった人々や破れてしまった人に対して、救いがあるとは言い難い。
特に日本人にとって、労働力は一見美徳なように思えるけれど、「何のために働くのか?」という根本が、「資本にして、還元するため」とされているのなら、人が病んでいってしまうのは、至極当然なのではないだろうか?なぜなら「人そのもの」は追いやられているから。

 そもそも、日本元来の主義を顧みるのであれば、武士道を汲まなければならない。

 新渡戸稲造著の「武士道」のなかで、1870年に教育開拓者として日本に招聘されたウィリアム・エリオット・グリッフィスは、次のように語っている。

「私は武士道をば、異国の物としてでなく、その原産地において眺めた。茶の湯・柔術・腹切り・畳の上の平伏と街上の身を屈める辞儀、刀と従来の作法、すべての長閑な挨拶と丁重を極めた物の言い方、技芸振舞いの掟、ならびに妻、下婢、小児のための任侠など、武士道がこの城下町と国において、すべての上流階級の日常生活における普遍的なる信条および実践を成していることを、私は知った。それをば思想および生活の活きた学校として、少年も少女も等しく訓練せられた。」
「日本は日本自体の貴き先例に従い、自国の歴史および文明における最善のものを失うことなくして、世界の提供する最善のものを採り入れ、しかしてこれを同化した。」

 私は、これを読んだとき、海外の人から見て、かつての日本の姿はこのように映っていたの?物質や経済の優位性によって、思想が形作られるのではなくて、「人としてどうあるべきなのか。」といった「人間の心と行い」を母体として捉えていた社会だったのではないかと、かつての時代の日本に思いを馳せた。
また日本の中には、八百万の神という「すべての中に神が宿る」という神道があるからこそ、排他性を持たずに、他国のモノも素直な心で受け入れられる精神性があり、それは今だって決して失われてはいない。

 日本人が脈々と大切にしてきた精神と資本主義から生み出された価値観は、あまりにかけ離れているように私には思える。もちろん物質的発展のために、功の役割だった部分もあるとは思う。でも・・・このままずっと、この主義が変わらないでいていいとは、私には思えない。人間の「労働力」に価値を持たせすぎるのではなくて、「人間の心と行いそのもの」を中心としなければ、人間は、己自身を核とすることが出来ずに、精神性を見失っていくのではないだろうか。

まとめ。

 私は、本来の姿である日本の精神性にこそ、これからの世界の時代に欠かせない鍵が託されていると思う。なぜなら、IT革命によって資本主義がもたらした物質中心世界観にはもう限界が来ていて、精神性をこれ以上置いてきぼりになんて、出来るはずないと思うからだ。物質社会と精神社会のバランスを取っていくためには、日本の和の心が、絶対に必要だとヒシヒシと感じている。

 どうかこれを読んで下さっている方の中に、現代社会の荒波に揉まれて、もし自分に価値がないとか、自分のことを社会のお荷物だと責め立てて、苦しんでる人がいるのなら、私は最後に真心を持って伝えたい。

「人間としての価値は、経済活動の中だけに決して存在しない。貴方が一生懸命に悩み苦しんだ先の心や行いに、どれだけの人が掬われているのだろう。どうか貴方の価値を、この社会の渦の中で見失わないで。

貴方が生まれてきてくれて
生きてきてくれて、本当にありがとうございます。」

Sara


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