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【シネマで社会勉強】No.15~『Fukushima 50』は原発事故をどう描いたのか。


 かりるーむをご覧のみなさま、お久しぶりです。

 前回の更新から二か月近くたってしまいました。この間、みなさまがたもさぞかし大変だったかと思います。

 新年度も始まったので心機一転、このブログの更新ふくめ頑張るつもりなのでよろしくお願いいたします。

 さて、自粛ムードで最近は家にこもりがちでしたが、今日は月に1度の映画サービスデーだったので劇場へ足を運びました。

 選んだ作品は『Fukushima 50』です。

 震災直後の原発事故を描く大作ということで関心はあったのですが、公開直後からネット上では否定的な評価が目立ち(もちろん絶賛する声もありましたが)、つい尻込みしていたのです。

 いくらなんでもあの災害を真剣に描いた作品がそんなひどい出来なわけはないだろう。この目で確かめてみなければ、とも思いました。

 映画はいきなり福島原子力発電所(F1)が地震、そして津波に襲われるところから始まります。かつての東宝パニック大作「日本沈没」「地震列島」をほうふつとさせるシーンが連続します。

 まあこのへんは予想どおり。スリル満点のスペクタクルもべつに悪いというわけじゃない。
 だけどなんだか、既存の特撮スペクタクル映画以上のものが感じられないのです。最新のCG技術を駆使してはいても。

 3.11の直後から現在まで、僕らは多くの震災ドキュメントをテレビや映画で目にしてきました。実際の津波の映像や被災者たちの肉声を見聞きしたあとで、それ以上のものをフィクションにもとめるのはむずかしい。いくらCGであっても現実の劣化コピーにしか見えないのです。

 それと残念だったのは人間ドラマの部分。

 渡辺謙、佐藤浩市はじめ出演者のほとんどが最初から最後までひたすら怒鳴りあっている。まあ非常事態ですから感情も高ぶるでしょうけど。

 登場人物が、ただ物語を動かすだけの存在にしかなっていないのです。もっと深く人間を描くこともできたんじゃないでしょうか。エンタメにそんなものは必要ない、という意見もあるでしょうが。


 職務への忠実さとかストイックな自己犠牲とか、お涙ちょうだい的なドラマづくりはたしかに日本人好みかもしれません。でも現実にブラック企業であえぐいまの若者層に、どれだけそれは響くでしょう。

 年長世代は当然のように、仕事のために自分を殺すのが美しいと考えているでしょう。さらにさかのぼれば特攻精神とかももてはやされたわけで。このへんは世代の差かも。

 組織のために個人が犠牲になることを嫌う人たちには(自分もその一人ですが)、この映画のテーマそのものが受け入れられないかもしれません。

 3.11直後、原発事故に立ち向かう人々のニュース映像を見たとき、これはぜったいいつか映画化されるだろうと、不謹慎ながら予想していました。
ただ今回の「Fukushima 50」は、そのタイミングが少し早かったような気がしないでもないです。

 震災で受けた心の傷がそんなに早く癒えるわけはない。それもこの作品が批判を集めてしまった一因でしょう。

 制作側の狙いとしては主人公たちの活躍を娯楽活劇として楽しみながら、いっぽうで現実の被災地に思いを馳せてほしい、というところではと思います。この映画はそんなふうに観るべき作品でしょう。


 物語の最後のほうで、震災から5年後のフクシマの姿が映ります。

 上空から映した街に人の姿はなく、更地もあちこちに目立つ。本編の仰々しいドラマより、なぜかそっちの方が心に迫ってきます。

 スクリーンに咲き誇る満開の桜。今年、新たな災いのためにほとんど満足に見られなかった桜。

 F1の危機はどうにか回避されたようですが、僕たちはふたたび異なる危機の前にいます。

 この作品が、いま現実の困難にある人たちに勇気を与えることができれば、ネットにあふれている酷評から少しは救われるかもしれませんね。
(2020/04/02)

written by 塩こーじ

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