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実感から御来光の目的を考える

※前提として、本稿の目的は「御来光の鑑賞を通して得られた実感」を重視したもので、民俗学的・宗教学的・社会行動学的・医学的などに対して正しいと主張するものではありません。

■御来光について考える


「御来光とは何なのか?」
よく考えると、とても謎が多いこの行動。考えをまとめるため、2023年の元旦、山から赤らむ東の空を眺めつつ、人々の会話にも耳を傾けた。
そして、直後、取り急ぎ友人の運転する車の後部座席で本稿を書き留めた。体感と既存知識だけで検証し、できるだけプリミティブなものにするためだ。

■感覚的要因


まず、晴れ〜快晴の日の太陽は、いつ見ても綺麗だ。
特に明けと暮れは格別で、人類にも"走光性"があるのだと実感するが、これだと御来光に限らない。
そのものの美しさ・魅力があることは前提だが、それ以外の要素のウェイトの方が、明らかに重視されているように思われてならなかった。

理由は、説明不能だ。
友人や周囲の人々の会話の内容から推察したに過ぎないが、なぜか納得感があるからそのまま綴ったまでである。

■御来光の社会的性質と目的

「初日の出」というものは、地平線の先に見えなければならないとか、元旦の朝に見なければならないなどの定義があるようだが、それは個人の感覚によって差異がある。
そもそも元旦という日も、どこかの誰かさんの誕生日などを基準に決められた暦によって定められたもので、社会的・民俗的・民族的、として政治的権威などでは意味がとても大きく認知されているが、小規模コミュニティにおいては、正直に言えばどうでもよいものだ。
歴史的には、修験道に関わるものだと考えられるが、それより古くから山岳信仰はあった。

自分の脚で登らない修験者の擬似体験とも言える、この御来光。
結論から言うと、見る場所やタイミングもそうだが、それ以上に「どんな相手と見るか」が大きいように思われる。
より具体的には、「その後の人間関係のための行動」というのが本性、あるい本体なのではないかと思われる。
これは、ヒトが行為を見せ合い共有することを重視する「社会性動物」だという前提によるもの。

■感覚の共有


また、今回、「何となく信心深い人をいい人そうだと感じる感性の正体」が推し量れた。
特殊な行動を共有することで得られる一体感と、その特別感。しかし、その精神的な指向性・収束性はあくまでアウトライン。
これは、「心理的な孤独感を払拭させてくれる機会が多い相手
=いい人結果としての信仰」という、"示し合わせの文化"なのかもしれないと感じたからだ。

アーティストのライブで、オーディエンスに特定の形式があったりするが、ああして指向性を高め、軽微なトランス状態(最強感・充足感・一体感)を起こし、複雑な幸福感を得る。
その核は、同類探しの手法としての
"圧力""選別"にあるが、その場の大半は他人だ。
これらは、状況がよく似ている。

■まとめ


雑だがまとめると、示し合わせや雰囲気に合わせたノリ、生得的感性を前提に、その上で、例えば「〇〇するのが真のオタク」のように、暗に自分と似た感性の人間を篩(ふるい)にかける傲慢さと、それを許容してくれる"優しい人探し"の側面があるのだと考えられた。
一言でいうなら、"民俗性を確認し合って安心する行為のひとつ"といったところではないだろうか。
時代によっては、その場で生まれた一目惚れとかもあったかもしれない。
つまり、一種の祭りといえる御来光とは、根本的には""コミュニティの範囲の確認""なのかもしれないという結論に至った。

合ってるかは、もちろん不明。ただの実感なので。
これをもって書き初めとします。

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