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父の一生

父が亡くなりましたので、その一生を私の目からまとめてみたいと思います。(上の写真は父が作ったプラモデル)

・昭和7年東京下町八丁堀のポンプ設計事務所一家、七人兄弟の上から3番目次男として生まれる

自宅の通りの向かいにある京華小学校に入学。

明治34年創立 京華小学校(現在建物をリニューアルして京華スクエアとなっている)

・長男、長女、父、他の兄弟ほとんどが成績優秀で朝礼で先頭だったというのが私の祖母の自慢だった。

・戦時中のことは語らなかったので不明、学童疎開か家族疎開かとにかく家族に戦死者はいなかった模様。

・7人も兄弟がいては何もできぬと物干しに小屋を作りトランジスタラジオをつけて勉強していた。

・当時の学制は混乱していたため調べてもよくわからないがとにかく「大学予科」に進む。

・次男ゆえ学費の安い国立大学を目指すも落ち、通っていた予科が立教大学予科で、学費免除特待生として立教大学に入学したと思われる。
大学の授業料は払ってないと言っていた。
英文学科と経済学科、両方履修して卒業する。
学風の影響かバリバリ下町こち亀両さんみたいな上の叔父とは対照的に西洋かぶれで山の手風を目指すようなところがあった。

・北海道硫黄株式会社に入社。本社丸の内勤務。予科は今より学年が一年少なく、今の大卒よりその分早く社会に出ていることになる。
一人暮らしもしていたらしい。
その頃、何かの薬を飲みすぎて死にかけたと母が祖母から聞いている。ストレス耐性やや弱である。

・社内で母と出会って結婚、同時に群馬と長野の境にある硫黄鉱山に転勤。母も神田生まれの江戸っ子なのだが私はこの山の中で生まれる。

小串鉱山

・私が二歳頃になると本社に戻され、東村山に平家を買って妹が生まれる。ダットサン→カローラと車が好きでよくいろんなところに連れて行かれた。

・子供の頃父といえばやたら飛行機が好きで、日曜日はプラモデル作るところを見学してた。レジャーも入間の航空ショー。あまり喋らなくて、お酒はよく飲んでそういう時は割と喋る。
私が多動なのでよくゲンコツももらっていたし姿勢が悪いと洋裁に使う長いモノサシを背中に入れられてた

・一番大変だったのが私の病気と、
朝鮮戦争時には「黄色いダイヤ」と呼ばれるほど硫黄価格が高騰し、鉱工業の花形ともいわれた硫黄産業が、原油から石油精製脱硫による副産物として大量の硫黄が供給され天然のものを掘る必要がなくなり(wikiより)」
傾き、会社を整理することになった頃だろうか。

・父は本社経理部の文学青年、社内報の文芸欄に長文エッセイを投稿し本まで出版するような社長にに入られていた様子で、労組運動に経営者側の精鋭数人の一員として裁判、退職する社員の転職先探しなどに奔走。
北海道や長野に出張することが増えほとんど帰ってこなくなる。
また減給のため母は洋裁の内職と英語教室(中大英文科卒)で家計を助けていたのだが・・・そんな暗い空気に反応してか小学3,4年くらいだった私は喘息の発作を起こしまくり何度も救急車で運ばれるありさま・・・。
医師の勧めから転地療法で千葉にマンション買って引っ越すことに。多分この時母は自分の実家に援助してもらったと思う。(母はそれが遠因となりでのちに血族と縁を切ることになる。)


・その後北硫産業株式会社と社名を変えた会社は業務を縮小。炭坑跡地に椎茸を栽培してみたり、軽石を売ったりしてた。あとは硫黄の流通事業などで以後安定的にバブル崩壊も乗り越え長寿会社となった。三井財閥系ということもあったのかもしれない。
長野ではしばらくは殺虫剤の原料として天然物を掘ってたりもしていて私も中学の頃見に行ったことがある。

娘2人を4大に通わせ嫁に出し、働けるまで働き、退職してからは母と国内、海外と物見遊山にでかけ、車もずっとカローラだったのをフィアットプントに乗り換えあちこちドライブし、孫と庭でバーベキューしたり美味しいものを食べに行ったり。
特にイタリアが好きで夫婦で数回行っていたが、そのうち母だけが毎年毎年海外に行くようになっていった。テーマ別オーダーメイドの小さな旅行会社の高くつくグループツアーってやつ。

孫には折に触れブランドの服、バレエの発表会の衣裳代(習わせろといったのは母なので)と援助があり、ありがたいと思いつつも、何年かするといくら年金が多めな年代とはいえ
すでに土地家屋は大幅に価値が下がっているので余計気になっていたのだが・・認知症が次第に父を蝕んでいたことに私たちは気がつかなかった。

結果、違和感を私も妹も感じる頃には、実家には貯蓄がなくなっていた。父は小銭ばかりを溜め込んでいた。すでに勘定ができなくなっていたのだ。
経理取締役、バブルの時も投機に手を出すのに反対し会社を守ってきた父が。

しっかりしていた人、プライドの高い人は物忘れしても誤魔化すのが上手いのである。
母も何事も都合の良い方に考えるし、まさかと目をつぶってしまった。そのうちとうとう新聞屋やガス屋から銀行に残金がありませんという連絡がきて大ごとだと気づく。
その段になって「海外なんてほいほい行くんじゃなかった」と嘆かれても後の祭りである。
お金の勘定ができなくなっても母を自由にさせていた父。
昔会社のことで苦労させたことがトラウマだったのかもしれないとも思う。

過酷な老老介護。
母の体力に限界もきて、ケアマネージャーをせっついたり泣きついたりあの手この手を使い、ショートステイのハシゴをさせている間になんとか特養ホームに入所できることになったのが6月ごろだったろうか。

私も妹も大金の動く契約書交わすことなど恐ろしくてできないただの主婦。
その上お金がないので細かい精査が必要だった。
その辺は私の夫が活躍してくれたのだが大助かりだったのは間違いない。(妹の旦那さんは札幌勤務)

ちなみに亡くなった後の手続きも期限付きでわかりずらい手続きが山積みで地獄。次女は公認会計士で行政書士の資格も取れたはずだが、聞いてみたら会費渋って退会したらしい。
何より孫の手まで煩わせるつもりもない。

民間のホームに短期滞在した時は予期しない料金がどんどん加算されて恐ろしかったし人手がないのか事務や会計の要員がいない。入退所の手続きや請求明細の責任の所在が不明で困った。何もかも初めてなのだ。研究しようにもなにせわかりにくいのである。

入院や施設に連れ回してる間に、父は私や妹の顔も忘れた。
私の夫のことも何かの業者と思ってたと思う。
母のことはどうだろう。母がしつこくいい聞かせてたから適当に答えていたのかもしれないし、少しは覚えてたかもしれない。

ただ、自宅の老老介護でイライラした母に介護されず、プロの手厚いお世話をしていただくようになって穏やかな顔つきになり、どの施設に行っても父は紳士的だと評判が良かった。
認知症で本当の人格が出るというけども、むしろ冗談言ったりおどけたりして実は一家の主人として威厳を保とうとして殻被ってたのかも。
人に迷惑をかけるのはもってのほか、誰かが幸福になるためなら自分が我慢するという性格だった。
好奇心が強く手先が器用で、なんでも直してくれた。
彼方に行ったら毎日いっしょに寝てたイッヌと楽しく暮らしてほしい。

私にとって一番辛かったのは認知症が進んでいき、別の人になってしまったこと。進路や結婚の時相談したのは父だったのに。
その時本当は一回死んでしまったのだ。
昔下町のおやつもんじゃ焼きを焼くのがうまいということで、夕飯に父がよくお好み焼きを焼いてくれていた。
あるとき台所で自分の家族にお好み焼きを作りながらそれを思い出して私はちょっと泣いた。
ちょっとじゃなかったかもしれないが、焦げるといけないから我慢しながら泣いた。

最後にお世話になった施設の職員の方々には本当に良くしていただき、ありがたかったし頭が下がります。
お世話になりました。

お知り合いご家族は必ず老います。自分もです。
メメントモリのまえに、メメント老いですよ・・・・













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