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ししおのつぼやき16 タイトル負け2(外国映画篇) 勝手に訳しやがれ


 「つぼやき13」で映画『キリング・オブ・ケネス・チェンバレン』の怠慢な日本語タイトルについて書いたので7月に書いていた「タイトル負け2」を未完成のままだったのを思い出した。さらに10/21に見たベトナム映画から映画タイトルについての新ネタができたので書き継いで完成をめざす。つもりだったがテーマが逸脱したのでその分は17で独立させた。

(ここから既存原稿の修正)
 もう30年くらい前の話だが、某日本作家の個展のポスターを有名デザイナーがデザインしたときに英語のメインタイトルだけを巨大な文字で入れたのを見た覚えがある。もちろん日本国内での展覧会なので見るのは日本語ユーザーがメインだ。そのタイトルは忘れたが、何らテーマやコンセプトを示すものではなく(それならまだ下記のように翻訳困難な場合には言い訳できるが)作家名をローマ字表記しただけだったと思う。デザイナー(そして個展の場合はアーティスト本人)は一般向けの広報効果なんかよりも見た目のカッコよさを追求してしまいそうだが、上記の場合は公立美術館の主催だったのでそれでよかったのだろうか。というのは、昔よりははるかに日本人も英語の表示に抵抗がなくなったにしても、それをいいことに芸術作品の一要素であるタイトルの翻訳の怠慢さが目立つからだ。
 特に、最近の外国映画のカタカナのタイトルはひどい。仏独伊露などは最初からカタカナ訳(音訳transliterationは無理だから……そこまで日本語化した単語がめったない)、元が英語の場合(たいていアメリカ映画)になるが。
 外国映画とか音楽には、商業的な成功の必要もあって、先人が見事な訳(意訳よりも翻案に近い)をつけていたことを最近の小説家や映画配給者は知らないのだろうか。すぐに思いつくのはこないだ死んだゴダール監督の、映画史に残る1960年日本公開(以下、年代は日本公開年)の『勝手にしやがれ』(検索するとジュリ~が出るだろうけど)。原題はÀ bout de souffle(直訳「息を切らせる」=力尽きて)、英題はBreathless(息がつまるとか、同じような意味みたい)。今だったら(いくらなんでもフランス語音訳の「ア・ブ・ド・スフル」はありえないから)「ブレスレス」なんてタイトルにしてしまうのでは? そういえば韓国映画『息もできない』(2010年)の英題はBreathlessなのでゴダールへのオマージュだったのか?(ちなみに原題똥파리=トンパリは韓国では豊富にある罵倒語のひとつで「糞蝿」の意なので、さすがに営業上使えなかっただろう。)あのアカデミー賞受賞の『パラサイト』原題も기생충(キセンチュン=寄生虫)だからこれも使えない。中韓のタイトルは英語経由でなく(特に漢字語の場合)原題から訳すべきだというのが私の持論だがこれはしかたないので許す。映画会社の利益を気にするのでなく、観客への芸術的配慮として。
 ゴダールに話を戻せば『勝手にしやがれ』を「息ができない」からかけ離れたタイトルにしたのは離れ業でも完全に日本では定着してしまった。自然化したからこそ、先人の翻訳のアクロバットを思い出すべきだ。調べればまだいくらでも例が見つかると思う。ヴィスコンティ「The Dammed」(1970年公開、イタリア語不明)が『地獄に堕ちた勇者ども』。元が固有名詞で意味不明な「ペペ・ル・モコ」(1939年公開)が『望郷』、「ボニーとクライド」(1968年公開)が『俺たちに明日はない』。「ブッチ・キャシディとサンダンス・キッド」が(1970年公開)『明日に向かって撃て!』(「明日」ウケた?)。「ジュルとジム(仏語)」が『突然炎のごとく』というのもすごい。タイトルで内容に先入観を与えすぎてないか心配だけど、人名だけでは内容を伝えられないから工夫するのは当然だが(それが今では当然でないのが前述の「ケネス・チェンバレン」に見られる)、見てみたいな、と気を起させる映画配給者たちの努力は後世にも生きているのだ。
 何かで読んだが見事な和訳の例は、ジャズのスタンダード曲「Can't Get Started」の定訳は『言い出しかねて』。歌詞の内容は知らないが伝統短詩の7音できれいにまとめている。今なら「キャント・ゲット・スターテッド」になっちゃうでしょうね。音楽のタイトルも調べればいくつも定着した名訳が見つかりそうだ。
 こういう伝統は失われた。渡辺京二の『逝きし世の面影』風にいえばひとつの「文明」が失われた。1960年代の映画産業の衰退だけが原因ではないと思う。翻訳においても広報においても知恵を失ったのはもっと最近のことだから。ヒマな人が調べてほしいが、小説のタイトルが凡庸化したのと時期を同じくしていないか?
 こんなことを今思うのは、(たまたま『パラサイト』とアジア系アカデミー賞続きだが)『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』という音訳だけの日本公開名にあっけにとられたからだ。もちろん中学英語の単語を並べただけだし内容には合っているのかもしれないし(見てない)、日本公開前の受賞のニュースで意訳してはまずいのはわかるが、公開後も「エブエブ」なんて略が使われるくらいならなんとか日本語にできなかったのだろうか。いつか見る機会あれば私案を作ってみたい。
 ただこれはかなり複雑な構造の映画のようなのでこの原題はいったんいいことにして、現代アートの本を英米に留学した「キュレーター」みたいなお方が訳す場合はもっとなんとかならないのかと思う。もちろん私だって英語と日本語が単語でもフレーズでも一対一対応しないことなんて英語圏の留学経験のない私だって(いや留学してないからこそ)知っている(翻訳および翻訳チェックの仕事はかなりやってきたつもりだ)。それにしても……と例をあげようと思ったが、買う価値なさそうで借りた本だったので手元にないのであった。「ソーシャリー・エンゲージド・アート」についての翻訳のある本だった。このSEAと略される言葉も、完全とはいえなくても日本語におきかえる姿勢を持つ人もいるが、たいていの日本人もそのままカタカナにしている。どうしても「社会に関与するアート」がイヤなら、いっそ「エブエブ」みたいに「そ~えんアート」とワケのわからない略語に挑戦してほしい。なおこの本には「コオペレーション/コオオペラティブ」に「協同志向」と補うのはいいが、「コミュニティ・オーガナイジング」「タクティカル・メディア・イベント」「カルチャー・イン・アクション」には(地の文で意味をくだいているにしても)そのまま繰り返して使うような言葉ではないと思う。これらは日本での該当する実践が少ないか語られることが少なかったから対応する日本語がないかもしれないが、もっとひどいのは、明らかに常用日本語と異なる意味の「platform」を「プラットフォーム」(これって駅の乗り場のことでしょ)としてしまったり、国際会議等の「conference」を日本語化しているとは思えない「カンファレンス」として平気な顔をしていることだ(顔を見たわけでではない)。
 話が自分の書いた文章のタイトルから遠くはなれてしまった、しかし前に書いた(つぼやき13)ような、近年の芥川賞作品と外国映画タイトルに共通するのは、日本語の造語力、包容力を十分に発揮させないまま安易な日常語や翻訳放棄の英語を使っていることだ。柳瀬尚紀訳のジェームズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』はどうしても読めたものではないが(持っているけど)、柳瀬が試みた、漢字・ひらがな・カタカナ+ルビ(これは絶対ヨーロッパ語になかろう)と多数の辞書を駆使したすさまじい翻案造語力には驚嘆するほかない。
 映画翻訳者と現代アート本の翻訳者に告ぐ。固有名詞と完全に日本語化した単語以外のカタカナを一切使わないで翻訳を試みよ。それが「翻訳者の課題」だ。……なんていうと、あ、またベンヤミンを読み返さないといけないなと思って(翻訳の問題はしょっちゅう考えるので読み返すいい機会だったのだが)、面倒くさくて忘れてしまい、それでこの回を完成させていないのだった。で完成させようと思ってついに読み返したのだが、やっぱり「純粋言語」というベンちゃんにありがちな「根源」志向はよくわからないのだった。
 で、映画タイトルの翻訳は別の方向に展開していくのだった(「つぼやき17」に続く)。
(10/22にいったん公開したあと後半を次回に独立させて10/23改稿を公開)