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#169 壇之浦の水軍と平泉【宮沢賢治とシャーマンと山 その42】

(続き)

解説板の中の、

「源平の戦いは、一ノ谷の合戦から海上戦に移り、当時最強を誇った熊野水軍の動向が、その勝敗に大きな影響を与えることになり、熊野の水軍の統率者である熊野別当 湛増に対する、源平双方の働きかけは激しさをきわめた。」

という説明書きを読むと、源平合戦において、源氏も平家も熊野水軍の海軍力を欲しがったと思われる。

平家は、瀬戸内海を拠点に持つことから、海上戦に強いイメージがある。逆に、源氏は陸戦に強いイメージを漠然と持っていた。しかし、最終決戦の壇之浦の戦いでは、源氏が勝利している。「義経の八艘飛び」など、源義経の超人的活躍で勝利したような気がしていたが、強い海軍力が基礎になければ、勝利は不可能であろう。

源平両者が熊野水軍の力を必要とするのは当然とも思え、そう考えると、義経と弁慶の主従関係が持つ意味も違ったものに見えてくる。京都の五条大橋で、牛若丸、つまり義経と弁慶が出会ったというのが伝説だが、もしかすると、両者の主従関係にはそれ以上の深い意味があり、戦略的、政治的な側面があるのかもしれない。

そして、先にも書いたように、奥州平泉の総大将である藤原秀衡が、熊野古道の山中を訪れたという足跡が残されていることも、平安末期の戦乱の中で、平泉と熊野が繋がっていた、あるいは、繋がりを強化しようとしていたことを示しているのかもしれない。

ちなみに、壇之浦の戦いで源氏方についた水軍の中に「松浦党」があるが、この松浦党のルーツの一つは奥州にあるとも言われる。奥州藤原氏以前に奥州に君臨していた安倍一族の安倍宗任がそのルーツで、安倍氏が滅ぼされた後、宗任は西国に流され、その末裔が松浦党のルーツとなったというものだ。

この宗任の娘は、先に登場した平泉の藤原秀衡の父である二代・基衡の妻であり、ここでも、平泉との結びつきが登場する。そして、これまで何度も登場した摩多羅神が後ろ戸に祀られていると言われる平泉の常行堂は、この毛越寺のお堂でもある。

さらに、全くの余談だが、安倍晋三 元首相は、この安倍宗任の末裔とも言われている。

【写真は、奥州藤原氏の二代・基衡が建立した平泉・毛越寺の「延年の舞」】

(続く)

2024(令和6)年4月1日(月)


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