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#111 エミリィ・新渡戸・賢治の時代

エミリィ・ディキンスン(1830-1886)は1830年にアメリカで生まれ、その後生まれた新渡戸稲造(1862-1933)と宮沢賢治(1896-1933)は、共に1933年に亡くなりました。

エミリィ・新渡戸・賢治の時代は、エミリィが生まれ新渡戸と賢治が亡くなるまでの、1830年から1933年までの約100年間です。

この3人の時代には、様々なヒントが隠されているように思えます。

ヒントとは、「地方と世界を考えるヒント」「宗教と信仰を考えるヒント」「現代と未来を考えるヒント」の3つです。3人が生きた100年間は、現代に似ているように感じます。

まず、3人の時代はグローバル化の時代でした。グローバル化が高度に進み、世界中が密接につながりあい、賢治と新渡戸が生きていた1910年代の世界のグローバル化の指標は、約70年後の現代、1980年代と同じ水準だったとの研究もあります。

そして、グローバル化が創り出した日本で最高峰の人物の一人が、新渡戸稲造です。

新渡戸は、盛岡中学1年生だった賢治を前に講演をしています。この時の新渡戸は、武士道がベストセラーとなり、世界で知られる人物です。台湾での植民地統治も成功させた後で、旧制一高、現在の東京大学の教養部にあたる、エリート達が学ぶ学校で校長を務める、日本を代表する国際人、教育者の一人でした。新渡戸が校長を勤めた時代の旧制一高は、夏目漱石や芥川龍之介など、教科書に登場するような多くの著名人が関係しています。

戊辰戦争の敗北によって、新渡戸ゆかりの花巻が属する南部藩は、賊軍の汚名を受け、新渡戸は幼少期に苦労したものの、もし江戸時代が続いていたら考えられないグローバルな活躍をします。一高校長を辞めた後も、国際連盟の事務次長として、さらに世界へ飛躍し、国際平和に力を尽くしました。

賢治もまた、日本の地方都市である花巻に暮らしながら、アメリカやヨーロッパの思想家の本を読み、レコードを聞き、当時の世界最先端の思想や文化に触れていたと思われます。これもそれ以前の時代では考えられないことです。

賢治の取組みは、郷土の英雄とも言える新渡戸の取組みと被っている面があります。
賢治が農民達に無償で教えた「羅須地人協会」は、新渡戸が札幌で貧しい農民の子供などを対象とした「遠夜夜学校」のようでもあり、賢治が熱心に学んだエスペラントは、新渡戸が日本での推進者の一人でした。賢治の盛岡高等農林時代の同人誌「アザリア」は、新渡戸を囲む会だった「アゼリアの会」と同じ名前です。

このような個別の取組みだけでなく、そもそも、新渡戸は、大正時代の思想や文化をリードした「教養主義」の指導者的な存在で、当時、多くの若者達が新渡戸に影響を受けました。旧制一高の教え子達は戦後まで日本のリーダーとして活躍し、直接教えを受けなかった若者達も、新渡戸が熱心に文章を載せていた大衆雑誌などを通じて影響を受けました。

賢治が新渡戸から影響を受けなかったとは考えづらく、グローバルな世界の羅針盤として新渡戸を見ていたのではないかと思うのです。クリスチャンである新渡戸の影響かはわかりませんが、賢治はキリスト教についてもよく知っていたと思われます。

グローバル化の時代は、地方に生まれても最先端の情報を入手でき、日本、或いは世界で活躍できる反面、能力や経済力が重要で、同じ地方に住んでいながら、大きな分断が生まれる可能性もあります。

現代も、この時代同様にグローバル化が進んだ時代であることから、新渡戸や賢治が何に取組んで、どんな結果がもたらされたかを考えることは、地方と世界を考えるヒントになると考えています。


次に、3人の時代は宗教の時代、というより、既存の宗教が揺らぎ、新しい信仰が必要とされた時代です。この時代に語られた「神は死んだ」という有名な言葉があり、これは、3人と同時代に生きたニーチェ(1844-1900)の言葉です。

エミリィ・ディキンスンの伝記的映画「静かなる情熱」冒頭で、エミリが信仰告白できない印象的なシーンがあります。

伝統的な神様はエミリィを救ってはくれず、もしかすると、エミリィにとってそれまでの神様は死んだのと同じだったのかもしれません。もし神が死んだとしても、神に変わる信仰の対象が必要で、それは、無条件に神を信じられた時代より難しい時代です。

エミリィは新しい神様を探しているようにも見えます。

賢治も、父親が信仰していた浄土真宗に激しく反発します。そして、当時新たに登場した日蓮主義に深く共感します。その一方で、キリスト教にも親しみ、宗教的背景としては、幼い頃から親しんだ浄土真宗や、伝統的な山岳信仰、そして、それらを大きく包んでいた江戸時代以前の神仏習合的な雰囲気が漂っています。

賢治もエミリィも、信仰を巡って揺れ動く様子が、それぞれの時代の作品から感じられます。
ただ、二人とも、与えられた信仰ではなく、自分自身の中にある力に信じる事を、信仰のようなものとして重要視していたように見えます。このような思想には、二人に影響を与え、先ほど登場したニーチェにも影響を与えた、アメリカのエマソン(1803-1882)の思想が影響しているように思われます。

エミリィと賢治が、最終的にどのような信仰を見つけ出したのかはわかりません。ただ、賢治の
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
という言葉は、ある種の信仰の一つの到達点のようにも見えます。

現在のイスラエルとパレスチナの問題には、ユダヤ教やイスラム教に詳しくない私でも、宗教や信仰とは何か、という事を考えてしまいます。日本でも、安倍元首相の銃撃事件など、宗教に関係する事件も起こり、宗教や信仰について考える機会が増えているように思われます。

エミリィや賢治が、信仰が揺らいだ時代に、何に苦しみ、何を探そうとしたのかを考えることは、宗教や信仰を考えるヒントになると思います。


最後に、3人が生きた時代は、内戦が起こり、その後、人類初の世界大戦が起こった、戦争の時代です。
エミリィの時代のアメリカでは南北戦争(1861-65)、新渡戸の時代の日本では戊辰戦争(1868-69)。この2つはアメリカと日本の内戦です。

その後、新渡戸と賢治の時代の日本では、日清戦争(1984-85)、日露戦争(1904-05)、第一次世界大戦(1914-18)。二人の死後に起こる第二次世界大戦(1934-45)の予感を感じながら、二人は1933年に亡くなります。

特に新渡戸は国際人として、日本と欧米の間で国際平和のために力を尽くしましたが、第二次世界大戦への流れは止まりませんでした。新渡戸の活動は、農業から教育、国際貢献から政治など幅広く、わかりづらく、言葉で表すのが難しい面があります。しかし、新渡戸の活動の目的は、賢治が著した
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
という理念の下、その実現に、あらゆる分野で全力を尽くした、と考えると、理解できるような気もします。

そして現代も、世界大戦の時代が来るのではないか、という雰囲気が漂っています。
ロシアのウクライナ侵攻は、遠く離れた日本へも大きな衝撃を与え、次々と飛び込んでくる悲惨な映像は、21世紀とは思えない光景です。
偶然かもしれませんが、約100年前の20世紀初めにも、ウクライナの独立の消滅、そして虐殺がありました。そして、その後、第二次世界大戦が終わる1945年まで世界的な破壊が進んだことを考えると、今は破壊への道の途中にいるのではないか、とも考えてしまいます。

3人の時代に、3人が何を考え、何に取組み、どんな結果がもたらされたかを考えることは、現代と未来を考えるヒントとなるような気がするのです。

賢治とエミリィ、賢治と新渡戸、エミリィと新渡戸の間の直接的な結び付きは、ほとんど残されていません。そのため、3人の関係は、3人が生きた時代など間接的な状況から考えるしかありません。しかし、エミリィが生み出した作品の世界は、賢治が生み出した作品の世界に、よく似ているように見えます。また、賢治が目指した世界の姿と、新渡戸が目指した世界の姿も、よく似ているように見えます。そして、3人の時代を考えると、現代と似ているように感じられ、現代に起きる出来事を考える上で、様々なことを教えてくれるように思えます。

3人の中で最後に生まれた賢治が、新渡戸やエミリィから直接影響を受けたかはわからないことが多いのですが、グローバル化で狭くなった世界で、二人と同じような苦しみを共有しながら、自分なりの答えを探しているように見えます。

そして、
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
という言葉はエミリィ・新渡戸・賢治の時代の、思想的な一つの到達点のように見え、エミリィから始まった苦悩が、最終的に、この言葉へと繋がっているような気がするのです。

(終)

2023(令和5)年12月3日(日)

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