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#155 山への畏怖【宮沢賢治とシャーマンと山 その28】

(続き)

人が遥か上に仰ぎ見なければならない、というだけで、山は無条件に特別な存在となる。

人は恐らく、自分の目線より上にあるものに対し、本能的に畏怖の念を抱く。

それ故、権威あるものは高い場所に位置する。国旗や、権力者の演説、ピラミッドなど古代から続く巨大建築も。

加えて、恵みも災いも、日本人にとって重要な出来事の多くを生み出す山に登り、自らが一体化するという行為は、それだけで特別な出来事だ。そして、山に登ることによってもたらされる肉体的苦痛や、死とも隣合わせの危険性、最終的な達成感は、人間に信仰心を呼び覚ます装置ともなる。

更に、山は貴重な鉱物を産出し、温かい水も無尽蔵に湧出する一方、時に人の命も奪い、火や煙を噴き上げる。

数ある山の中には、人間が本能的に聖地として仰ぎ見る条件をもった、特別な山もあったのではないか。その条件が、高さなのか、形なのか、磁場なのかはわからない。ただ、そのような山は、宗派が変わり、教義が変わったとしても、多くの人々にとって、無条件の聖地だったのではないだろうか。

これまで登場した早池峰や出羽三山は、そのような聖地の条件を兼ね備えた、特別な山だと思われる。

山形県の庄内地方にある出羽三山も、長きにわたって信仰の聖地であり、賢治もメモに名を残している。一体どんな山か?ということに興味が湧き、私自身も登ってみた。出羽三山の一部は、今でも「語るなかれ」として秘され、江戸時代に出羽を訪れた松尾芭蕉も「語るなかれ」の教えにしたがい、出羽三山の実態の一部については、詳しく記していない。

【写真は、早池峰山】

(続く)

2024(令和6)年3月18日(月)

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