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#181 賢治の家出と帰郷【宮沢賢治とシャーマンと山 その54】

(続き)

宮沢賢治が残したメモなどの中に、この時代の様々な信仰に興味を持っていた痕跡が残されているのは既に見てきた通りで、特にも、晩年に残した手帳にその傾向が多く残っているようだ。

賢治は、地質学や天文学、物理学などの最先端の科学に対して飽くなき興味を抱くとともに、世界中の思想や信仰に対しても非常に強い興味を持っていたと思われる。その姿は「思想・信仰オタク」のようでもあり、宮澤家の恵まれた経済力ゆえに、賢治は自らの好奇心を躊躇なく満たしていたように見える。

恐らく、そんな賢治であるからこそ、その時代に存在していた数々の信仰や、賢治を取り巻く地域に根付いていた信仰の数々についても興味を持っていたと予想される。興味深いのは、賢治が、どの時期に、どのような思想や信仰を意識し、それをどのように作品などに残したか、残さなかったのか、ということではないだろうか。

賢治の信仰を巡る有名な出来事として、花巻で家業の手伝いをしていた賢治が、浄土真宗を信仰する父・政次郎と激しく対立し、日蓮主義の国柱会を熱烈に信奉し、花巻の町を布教してまわった事件がある。この出来事は、花巻の人々の印象に強く残り、後々も賢治の信仰にまつわるトピックスとして語られる事が多い。この時期の賢治が、熱狂的に日蓮主義を信奉していたのは確かだと思われ、その後、熱烈な信仰のままに突如として東京へ家出し、国柱会へ通い始める。しかし、それ以降の賢治の日蓮主義に対する熱烈な信仰の表現は断片的となる。

東京での賢治は国柱会へ通いながら、上野公園等で布教活動を行ったようだが、花巻での賢治のように、布教活動が大きな事件となることはなく、東京へ家出した約半年後の8月には、原稿の入ったトランクを抱えて、故郷・花巻へと戻っている。

【写真は、「雨ニモマケズ手帳」】

(続く)

2024(令和6)年5月4日(土)


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