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ささやかな死

朝早く電話がかかってきた。

母が入居する老人介護施設からだった。
「お母様の血中酸素濃度が80を下回っています。昨日よりさらにお加減が良くないようです。予定より早めに来ていただけますか」
その日は医師の往診に合わせて11時に施設を訪問する予定になっていたのだが、時間を早めてつきそってほしいとの用件だった。できるだけ早く伺うと答えた。

母が食事をとることが困難になりつつあると施設から知らされたのは、つい1週間ほど前のことだ。
細かくきざんだ流動食を介護士にスプーンで口に運んでもらい、少しずつ呑み込むようにして食事をしていたのだが、最近はなかなか呑み込めなくて口の中に溜まるようになってきたという。
その週の日曜に面会に行くと、状況はいよいよ思わしくなく、自力で食べることがまったくできなくなっていた。すでに意識もほとんどない状態だった。

その場で施設のケアマネージャーや看護師と今後の対応を話し合った。
95歳と高齢であることから、胃ろうなどの処置は取らず、皮下点滴等で最低限の栄養と水分を補って様子を見守る、いわゆる「看取り介護」に移行することとなった。
翌日の月曜には私の家族、母にとっては息子夫婦と孫二人が施設に集まり、意識のない母と最後の面会をした。

電話があったのはその翌日の火曜、1月にしては暖かい朝だった。

10時ころ施設の母の部屋に入った。
すっかりやせてしまった母の手を握る。手は温かかったが、あいかわらず眠り続けていて反応はない。血中酸素濃度は70台後半を上がったり下がったりしている。

たまたま定例の往診日にあたり施設を訪れた医師は真っ先に母を診察し、すでに下顎かがく呼吸となっているのでもう長くはないでしょうと告げた。
はじめて聞く「下顎呼吸」とは、下あごを上に突き出し、口を開けて浅く早い呼吸を繰り返す状態を言うらしい。
医師の見立てでは、数時間から一日ということだ。

数年前から母は耳がまったく聞こえなくなった。補聴器を試したのだが嫌がって装着しなかったため、筆談で会話することが習慣となっていた。
そんな折にコロナ禍に見舞われ、しばらく施設での面会が中断した時期に認知能力が急に衰えてしまった。

オンライン面会やガラス越し面会が再開すると、わたしの筆談での問いかけに、なにを書いても頷くくらいしかできなくなっていた。
俺が誰か分かる?と聞くと頷くけれど、分からない?と聞いても頷く、なにか欲しいものはある?と聞いても、ない?と聞いても頷く、といった調子だ。
携帯用のホワイトボードにマジックペンでなにか書くようにと促すと、小さな弱々しい字で「元気です」と書いたり、自分の名前を書いたりした。

施設の居室内での面会が可能となったころには眠っていることが多くなった。それでも起きていると、手を握れば力強く握り返してきたし、口を大きく開けて意味不明なアピールをして、こちらがまねして口を大きく開けてみせると嬉しがる様子だった。

一方で食欲は旺盛で、一日三食決まった量をしっかり平らげていた。内臓はとくにどこも悪いところはなかった。
そんな母がついに食べられなくなり、その後の展開はあっという間だった。

数時間から一日と宣告されはしたが、母に苦しそうな様子はなく、ただ穏やかに眠り続けていた。
ときおり息遣いが荒くせわしなくなることがあったが、わたしが介護士を呼び出すボタンを握って身構えると、また落ち着くのだった。
たまに、呼吸の合間に「ああ」とも「おう」ともつかない声を上げた。その声はなつかしい母の声であり、聴いていて少しうれしい気持ちになった。

数名の介護士さんと看護師さんが入れ替わり様子を見に来てくれ、枕の位置や高さ、足の下に置いたクッションの具合を調整した。
何度か口腔内を拭い、水分で湿らせてくれた。痰が絡んで喉がぜいぜい言い出すと専用の機器を使って痰を吸引してくれた。そうすると母も少し呼吸が楽になるようだった。
二度ほどおむつの交換と局部の清拭にも立ち会った。
そのように何人ものスタッフが、まもなく去ってゆく者の世話を親身に焼いてくれた。

母が食べなくなったと聞いたとき、それはおそらく「もういいよ、じゅうぶんだよ」という意味なのだろう、とわたしは思った。

かつての母がいちばん気に病んでいたのは兄のことだった。
兄は若い頃に漫画家志望だった。一度だけ新人漫画家として大手出版社の漫画週刊誌に連載を持ったことがあった。しかし実力本位の厳しい世界でほどなく淘汰され、仕事もなくなった。
その後は定職に就かず、結婚もせず、老いた両親と同居したまま脛をかじって生きていた。長年の不摂生がたたり身体も壊していた。母はそんな兄の行く末が心配でたまらなかったようだ。
その兄は、還暦を目前にして不幸な事故で亡くなった。その数年後に父も他界していた。
母にはもうなにも心残りがなかったのだろう。

わたしの自宅からさほど遠くない老人ホームで、穏やかな無為の時間を刻みながら、母はゆっくりと準備をととのえていたのではないだろうか。そうしてようやく機が熟したのではないだろうか。「食べない」というのはその合図だったのではないだろうか。
そんなことを考えながら母につきそっていた。

午前から午後にかけて、母の容態に大きな変化はなかなかやって来なかった。
浅く弱い呼吸は相変わらずだったが、それでも刻一刻といのちをつないでいた。

まるで母の中で、この世界を去ろうとする「意志」とそれにあらがう「器官や細胞」とがせめぎあっているかのようだった。
母という一個の人間の中でこころ、、、からだ、、、がたたかっている。
そのたたかいはわたしの中に奇妙な反映を引き起こした。
母のこころとからだの、はたしてどちらを応援すればよいのか分からなくなっていた。
つきそい見守り続けることに次第に疲れ、このまま安らかに逝ってほしいと望む気持ちと、いやいや、いのちの火が未だ尽きていないなら最後まで燃やし続けるようにと願う気持ちとが、相半ばしていた。
後になってその矛盾した心の状態を思い出し、われながら可笑しかった。

夕方になって、その日はいったん家に帰ることにした。
帰り際に、明日の朝また来るよ、それまでかんばってね、と声をかけた。

母はその夜しずかに息を引き取った。
けっきょくわたしはその瞬間に立ち会うことができなかった。

あの最後の一日、母は夢を見ていただろうか?
もし夢を見ていたのであれば、ハッピーエンドの夢を見たのであってほしい。
いまさらながらそう願っている。








※タイトル画像はにゃこぱんさんからお借りしました。ありがとうございました。

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