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常識について

前回の投稿で、常識というものは、ある集団なり社会なりに固有のものだというような趣旨のことを書いた。

それをきっかけとして、あらためて考えたみた。
特定の集団や社会に属するものではなくて、ある人間に固有の、個人的な「常識」というものもあるのでないだろうか?

常識とは英語で言えば "common sense" つまり「共通感覚」である。
常識=共通感覚だとすれば、個人的な「常識」などそもそも「語義矛盾」ということになる。
しかし、世間的な「共通感覚」とは一線を画すような、個々の人間にとっての偽らざる「常識」というものを考えてみたくなった。

もしそのようなものがあるならば、それは個としての人間が生きるうえでいっぽん筋のとおった「背骨」のようなものではないだろうか?
そして、もしそのような確かな「背骨」の存在を実感できるなら、生きていくことがいくぶん楽になるのではないか?

そんなことを漠然と考えながら、ふと曽野綾子さんの本で読んだ一節を思い出した。

その本は『人間にとって成熟とは何か』というタイトルの新書である。
内容はあらかた忘れてしまったのだが、その中にクリスチャンであることの「恩恵」について語った文章があり、強く印象に残ったのだ。

本棚から引っ張りだして、あらためてその箇所を確認してみた。以下のとおりだ。

 信仰というものはむずかしいものだ。信仰なんか持っているの、とばかにされる場合もある。神などという概念は科学的でないからである。ところが、私は信仰がないと不自由だろうな、と思うことはある。自分のしたことを正確に評価されることを、他の人間に期待するからである。
[中略]
 私が幼い頃から、キリスト教の信仰に触れてよかったと思うのは、自分の行動の評価者として神しか考えないようになったことだ。もちろん私も俗物の最たるものである。お菓子はもらえば嬉しいし、人間に褒められることは、これまた私の心をくすぐるものである。しかし私が何を思って何をしたかをほんとうに厳密に知っているのは神だけだ、という最終の地点の認識はいつも心の中にある。
 だから人にどう思われたっていいというわけではないが、いつのまにか、他人の毀誉褒貶きよほうへんは大きな問題ではない、という心の姿勢が私にはできるようになった。[以下略]

(曽野綾子『人間にとって成熟とは何か』幻冬舎新書, 2013 pp.198-200. 強調は引用者)

わたしの心に刻み付けられたのは、特に太字で強調した言葉であった。
「自分の行動の評価者はただ神のみである」ということ。この思いは、曽野綾子さんの生き方を貫く背骨のような、言わば個人的な「常識」と言えるように思う。

キリスト者にとっての善悪の基準、その行動の規範となるものは「神の御心」である。判断に迷うようなときは、神の声に耳をすまし、その声に恥じないような道を選ぶ。
曽野綾子さんの言葉の直接の意味はそのようなことだろう。

キリスト者にとっての「神の声」とは、彼らが日々学び、心のうちにつみかさねてきたキリストの教えに基づく価値観の体系と考えればよいだろうか?

しかし、わたしは思うのだが、キリストの教えは、人間のとるに足らない日常の一つひとつの行為に対して、必ずしもその良し悪しを指し示してくれるというわけではあるまい。

だとすれば、キリスト者にとっての「神の声」とは、実は、その者自身の心に本来内在する善悪なり美醜なりの価値基準であって、「神」はただそれを支持し、追認する役割を果たしているに過ぎないのではないか。

何が言いたいのかというと、キリスト者というものは人生の巡り合わせによって後天的にキリスト者になるのではなく、その人間に生来備わった資質がキリスト教的な価値観と合致するために必然的にキリスト者となるのではないか、ということである。

逆に、たとえ敬虔なクリスチャンの両親のもとに生まれ、幼いころから半ば強制的に宗教教育を施されたとしても、その人の生来の資質がキリスト教的な価値観を全的に肯定するものでないとすれば、決してキリスト者とはなりえないだろう。

そのような例証として、私はロシアの作家チェーホフを思い起こす。
チェーホフは、熱心な正教徒が疑いもなく備えていたそのような価値観=内心の「常識」を自ら拒絶したのだと思う。

チェーホフが拒絶したものは正教徒的常識に限らない。
彼の作品には、実にさまざまな信念や思い込みや固定観念等々、言わば個人的な「常識」に憑かれたような人物が数多く登場する。
チェーホフの作家としての冷徹な眼は、それらの「常識」の一つひとつを虚心に見つめ、厳密に吟味し、それぞれにひそむ虚偽や欺瞞や愚かさを容赦なく暴いてみせた。チェーホフの文学作品の本質はそこにあった。

あるいは、それらの作品群は、チェーホフ自身にとっての「揺るがない常識」を見いだそうとする必死の探求の過程で産み出されたものであったのかもしれない。

曽野綾子さんが言うように、真の信仰を持つ者は「自由」であるのだろう。
彼ら彼女らには揺るがない個としての「常識」が備わっているからだ。
その常識を貫くことは、大きな試練を伴うものかもしれないが、彼ら彼女らはそのような試練に立ち向かうことにためらいや疑いを持たないだろう。

そして、多分そうした自由や幸福は、ただ神に選ばれた者のためにあるのだ。
真のキリスト者たりうる資質も覚悟も持たない人間は、生きるための「背骨」、ひとすじの「よすが」として、彼らとは異なる自分自身の「常識」を探さなければならない。
生きるということは、そのような「宝石」を探り当てようとすることではないだろうか?

いずれにしろ、それは自分自身の中に探すしかないのだろうと思うのだ。




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