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第3回:「喜び」の精神で生きる

前回、私はこの世界に対して「生きづらさ」を感じていて、その結果、スピリチュアルの世界に興味を持つようになったと書きました。そこで、今回は、この「生きづらさ」が一般的にはどういった経緯で生まれているのかということと、この「生きづらさ」はどうすれば解消できるのかということについて書いていこうと思います。

そして、「生きづらさ」を生まない方法として「喜び」の精神で生きることの大切さについても書いていこうと思います。

人は「違い」を味わう存在

私たち人間は、一人ひとり異なる存在です。この自分と他者の違いが人ひとりの個性となっています。人の考え方として、違いよりも同じであることを好んだりする傾向があったりしますが、実をいうとこの「違い」を味わうことこそが人生を味わい深くするものであり、自分の可能性を広げるものだったりします。

もし一人ひとりに違いがなく、すべての人が全く同じ存在であるならば、それはロボットと一緒です。ロボットは役割を果たすことはできますが、自他の違いを知って自分自身を知ることに意味を見い出すことはできません。しかし、私たちは自他の違いを知ることができ、その違いを使ってこれまで、様々な文化を発展させてきました。

この世界にいろいろな料理があってそれを楽しむことができるのは、その国その国によって気候が異なるためです。気候が異なれば得られる食物も異なります。また、料理の仕方や料理をする人の考え方も国によって異なるため、多種多様な料理が生まれたりするものです。もしこの世界の気候が一様で、採れる作物も地域によって異なることもなく、料理の仕方も同じであったなら多様性を楽しむことはできません。

料理に限らず、この世界は様々な違いによって成り立っています。こういったことは、私たちの一人ひとりにもあてはまることであり、私たちは一人ひとりが異なっているからこそ多種多様な考え方が生まれ、互いを高め合い切磋琢磨ができるようになっています。つまり、私たちの世界は様々な「違い」があるからこそ発展してきたのです。

組織は「同一性」を求める存在

人は生を受けると「与えられる立場」として人生を始めますが、成長していくとともに能動性を獲得していきます。というのも、人は与えられるだけでは我慢ができず、色々体験したいと思うようになっていくからです。

幼い子供が他の人がしていることに興味を持ち、真似しようとするのは人間が生まれ持つ能動性の表れといっていいでしょう。そして、この幼い子供の能動性を育てていくことが真の教育だったりします。

しかし、人は組織で生きる存在であるため、必ずしも能動性が歓迎されるというわけではありません。私は幼い頃、落ち着きがないという指摘を何度も受けた記憶がありますが、集団生活ではそういった過度の能動性は、ひとつの欠点とされてしまったりします。

組織は全体性で動くことを目的とするため、周りの人と同じように行動できない人がいたりすると、目的を達成することができなくなってしまいます。こういったことから、規則は、全体の目的を達成するために生まれたといってよく、多くの人を横並びにしていった方が都合がよかったりします。

規則は、本来、お互いが心地よく過ごすための共通認識として作られているものです。しかし、実際には組織を運営する側の都合で作られていたりしています。組織は、その目的を達成することを第一優先にするため、基本的に、組織に従順で尽くしてくれる人物を好みます。こういったことから、組織は「違い」よりも同一性を重視するものであり、この同一性に対応できなかったりすると、そこに個人としての「生きづらさ」が生まれてしまったりします。

「精神的な個」を支えるのが理想的な社会

私たちは社会の中で生きる以上、自分の思惑と社会の思惑の両方のバランスを図りながら生きていかなければなりません。そういった意味で、私たちは「社会的な個」と「精神的な個」の両面を持っているといってよく、この「社会的な個」と「精神的な個」の両方をバランスよく使い分けながら過ごしていかなければなりません。

このことは、見方によっては「社会的な個」と「精神的な個」のせめぎ合いといってもいいかもしれません。ルールや規則の多い社会の中で生きていると、自由度が低くなってしまうため、出来ることが少なくなってしまいます。人は出来ることが少なくなってしまうと、不満を持つようになります。規則の多い社会で生きていると、「精神的な個」が抑圧されてしまいまうため「生きづらさ」が生まれてしまいます。

「生きづらさ」は、自分の思た通りにならないことで生まれます。人が一人で生きる分には「生きづらさ」は生まれません。しかし、人は集団で生活することが基本なので、そういった集団の中で、自分の思いが通らなかったりすると「生きづらさ」を感じるようになります。そして、こういった「生きづらさ」を抱えて生きていると、生きることが苦しくなってしまったりします。

私はどちらかというと規則の多い家庭で育ったために、子どもの頃にやりたいと思うことができずに成長してしまった経緯があります。こういったことから、大人になっても何かに挑戦しようとしても、すぐに行動に移すことができない性分になっていました。

子どもの頃に我慢するという経験を多く持ってしまうと、何かに挑戦したいと思っても、それを反対されるという思いが生まれてしまうために、結局、なんのアクションも起こさずに済ましてしまったりします。自分の希望を伝えても「どうせまたダメだ」と思ってしまい、何もせずにすぐに諦めてしまう癖がついてしまいます。

人は本来、自分の望みを叶えたいと思うものです。そして、自分の望みは体験を通じてしか叶えることができません。この体験するという機会を奪われてしまうと、人は「生きづらさ」を感じてしまうものなのです。

こういったことから、組織という「社会的個」と個人という「精神的な個」が上手く嚙み合わないと、そこに「生きづらさ」が生まれてしまいます。

「精神的な個」を支えるのが理想的な社会

人は「喜び」で生きることができると、自分の成長を実感して生きていけるようになるため、「精神的な個」を養っていけるようになります。人が生きる上で優先すべきことはこの「精神的な個」であり、「社会的な個」が「精神的な個」を支えていけるようにしていくことが理想といっていいでしょう。

しかし、この世界のシステムは「精神的な個」の上に「社会的な個」が存在しています。こういったシステムのあり方は、個人としての精神性よりも組織としての社会性を重視するものです。

しかし、「生きづらさ」を感じないような社会を創るのであれば、これまでとは反対のシステムを創らなければなりません。「社会的な個」の上に「精神的な個」をおき、規則やルールを必要最低限にし、一人ひとりの精神性を養っていけるようシステムを創ることができるようになれば、「生きづらさ」を感じることのない社会を作って行けるようになるでしょう。

そして、今後、こういった「生きづらさ」を感じない社会を創っていくのであれば、まずは、私たちの一人ひとりの考え方を変えていかなければならないと思います。

一人ひとりを横並びにするのではなく、それぞれの「違い」を認め、その「違い」を活かしあうような社会を創るのが理想だといえるでしょう。そして、そういった社会を創るのに必要なのが「喜び」の精神だったりします。

「喜び」の精神で生きる

人は「喜び」からたくさんのことを学んでいける存在です。というのも、人は「喜び」を感じることができると、同時に「愛」「自由」「感謝」「気づき」「力があるという感覚」を得られるようになるからです。

私たちが、これらの感覚を得ながら生きていけるようになれば、当然、「社会的な個」も適切な形で養っていくことができるようになり、多くの規則やルールが不要になっていきます。こういったルールや規則の少ない世の中で、一人ひとりがのびのびと生きていける社会が理想の社会であるはずです。

「喜び」と感じることは、それこそ一人ひとり異なります。そういった差異を上手に伸ばしながら、それぞれが活躍できる場所で自分を活かしていけるようになるのが理想の社会といえます。

そして、そういった社会を創るためには、一人ひとりが自分にとってのかけがえのない「喜び」を見つけていくことが大切だと思っています。気が進まないことを選んで生きるのではなく、自分から進んでできることを選んでいけるような精神を持てるようになることが大切なのだと思います。

こういったことから、今後、私は「喜び」で生きていくことの大切さをこのサイトで伝えていこうと思っています。私の活動によって少しでも多くの人が「喜び」で生きられるようになって、この世界が今以上によくなっていくといいなと思っています。

私がこのnoteで記事を書き始めた理由はこういった思いがあたからです。

といったわけで、今回は、「生きづらさ」が生まれてしまう原因や、「喜び」を優先して生きていくことの大切さを書いてきました。次回も引き続き、この「喜び」を優先して生きることの大切さについて書いていこうと思っています。

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