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平和に近づいていくためにすべきこと

ここ数回、お金についての記事を書いています。

そこで、現在の日本のお金について簡単におさらいしたいと思います。

まず、日本銀行のウィキペディアからの引用からみていきます。

日本銀行は、公的資本と民間資本により存立する。資本金は1億円(100万口)で、そのうち日本政府が55%の約5500万円を出資し、残り45%にあたる約4500万円を日本政府以外の者が出資する。日本銀行法により日本政府の保有割合が55%を下回ってはならないこととなっている。2022年3月末日時点における日本政府以外の出資者の内訳は、個人40.6%、金融機関1.9%、公共団体等0.2%、証券会社0.0%、その他法人2.3%となっている。

日本銀行の出資者の40.6%が個人となっています。

この個人とは誰なのでしょうか。

出資者が個人とは、不思議だったりします。

日本の政府の役割として、予算を組むということがあります。

予算決議とは、いわば日本のお金の配分を決めることです。

その決議に対して日本銀行の出資者の40.6%の個人の意向が含まれることも大いにあるといっていいでしょう。

ところで、日本は食糧自給率が低いといわれています。

その理由はというと、海外から食料を大量に輸入しているからです。

日本の農家では「お金にならない」という理由から離職する人が多かったりします。

このため、農業従事者の高齢化と後継者不足により、日本では耕作放棄地が増加しています。

では、なぜ日本で農業をするとお金にならなくなっているのでしょうか。

それは、日本人が農業をするとお金にならないシステムになっているからです。

現在の資本主義は、お金を持っている人が決定権を持っているといっていいでしょう。

そういった決定権を誰が持っているのでしょうか。

日本は第二次大戦で敗戦したことで、政治的に日本はアメリカ政府の意向を受けなければならないシステムになっています。

また、今のアメリカ政府は、アメリカの中央銀行というべきFRBの影響を受けています。

では、FRBはどのような背景で設立されているのでしょうか。

そういったことを見ていくと、アメリカ政府も何かしらの意向を受けて政治をしているということが分かってきます。

アメリカ政府でさえ、誰かの思惑で動いているといえるのです。

お金をどのように分配するのか、それが政治です。

つまり、現在のお金のシステムは、突き詰めていくと元締めとなっている人達がいて、そういった人達の意向によって世界の政治や経済が動かされているということができます。

世界の超富裕層26人、世界人口の半分の総資産と同額の富を独占

もし日本の農業を守るのであれば「お金にならない」という理由で離職する人を増やさないような政策を取るはずです。

しかし、それができないのが現在の日本の政治です。

こういったことと同様に、今のエネルギー資源をどのように活用すべきかといったことも突き詰めていけば、ごくわずかな人の意向によって決められていたりもします。

そういった中で、我々は今、「お金」を判断基準にする場面が多く存在しています。

ある意味では、お金によって「自分」という存在が左右されているということもできるでしょう。

前回の記事で、お金を基準にして判断するということは、他人軸であるということを書きました。

このお金が他人軸するということがどういうことかというと、究極的にいうならば、現在の世界のお金の総元締めとなっている人達の意向に合わせているということになります。

しかし、我々の存在価値は、お金に左右されるものではないはずです。

もちろん、こういった価値観は江戸時代では徳川幕府の意向によって当時の人たちの生活が左右されていたということもできるし、その前も時の権力者によって、一般の庶民の生活が左右されていたといっていいでしょう。

なので、お金という存在は、時の権力者の意向に大きく左右されているということができます。

おそらくこういった流れは、日本の歴史でいうならば、縄文時代以降の弥生時代から起こったということができます。

弥生時代に、いわゆる渡来人が日本にやってきたことで「所有」という概念が日本に広まり、それが「お金」という形に変化していったのでしょう。

弥生時代の前の縄文時代は、およそ1万年続いたといわれ、その間、争いがなかったといわれています。

では、なぜ争いがなかったかというと「所有」という概念がなかったからと考えられています。

当時、所有という概念が完全になかったとはいえませんが、今と比べたなら、その意識は何十倍も希薄だったと考えられます。

「所有」という概念は、格差を生み出します。

所有における格差とは、多く持っている人とそうでない人の差ということです。

しかし、「所有」という概念がなければ格差は生まれません。

なぜかというと所有するものがなければ、比べようがないからです。

たとえば、地球という場所は一つでしかないのに、国をつくり国境をつくることで格差が生まれてしまいます。

国境をつくれば面積の大きい国と小さい国が生まれてしまうからです。

国とは「ここからここまでが私の国」という所有の概念です。

こういったことと同様に、どんなことでも「所有」の意識が生じると同時に即座に「差」が生まれてしまうものです。

そして、この「差」が貧富を生み、たくさん持っている人が権力を握るという構図が生まれてしまうのです。

こういったことが日本でいうなら弥生時代以降に生まれた流れであり、それが原因で、その後の歴史は争いの歴史になったということができます。

こういった争いの歴史を我々は学校で習い覚えてきたのです。

「所有」の概念が生まれると「差」が生まれ、その「差」によって争いが生まれます。

この「差」を別な言葉でいうと「分離」という言葉になるため、「所有」
という意識が人を分離させるといってもいいでしょう。

そういった分離意識が、今の世の中では当たり前になっていて、現在はその極みに達しているいうことができます。

現在の技術を持ってすれば、この分離意識が一歩間違えると、人間という種を滅ぼしかねないからです。

だからこそ、現在の我々は、人という種としての精神性を取り戻すという動きが活発になっているのだと思います。

我々が本来生まれ持っている精神性を取り戻さない限り、これからの人類の未来の存続さえも危うくなってしまいます。

では、どうすれば我々の精神性を取り戻すことができ、争いのない平和な世界を生み出すことができるようになるのでしょうか。

その方法はというと、今当たり前と思われていることをすべてひっくり返せばいいということになります。

今、我々が当たり前と思えることは「所有」の意識によって創られています。

そこで、現在、我々が持っている「所有」という概念を手放すことができれば、すべてが反転してしまうのです。

そういったこともあり、今、一部の人で「所有」という概念のなかった縄文時代に注目が集まっていたりします。

あるいは自我性の薄い縄文時代の人たちの精神性に焦点が当たっているといってもいかもしれません。

人は、分離の意識が強くなればなるほど、自我性が強化されるものです。

個人の差が人の自我性を強めます。

もちろん、だからといって「所有」といった概念をすぐに手放せるわけではありません。

こういったことを書いている僕自身も、「所有意識」を今すぐに手放すことは不可能です。

しかし、少しづつでも「所有意識」を手放していかなければ、我々は自らの存在を滅ぼしかねないのです。

では、どうすれば「所有意識」を手放せるようになるのかというと、まさに、一人ひとりが精神性を高めていけばいいということになります。

一人ひとりが精神性を高め「所有」という概念から生まれる洗脳を少しづつ解いていく必要があるといっていいでしょう。

ならば、どのようにすれば、我々は精神性を高められるようになるのか。

それは物事の理(ことわり)を深く知るということです。

物事の理を深く知ることができれば、今、当たり前と思えていることが、実は真理ではなかったということを知ることができるようになります。

以前の記事で、ブルーハーツの「情熱の薔薇」の歌詞を紹介しました。

見てきたことや聞いた事
いままで覚えた全部
でたらめだったら面白い
そんな気持ちわかるでしょう

答えはきっと奥の方
心のずっと奥の方

我々が、心の奥に持っている精神性に気づくといき、これまで見聞きしてきたことや、覚えてきたことが真実ではなかったと気づくことになるでしょう。

我々が、今、当たり前と思っていることは、実は操作されていたことだったと気づけるようになるでしょう。

いわゆる一般市民の僕も、現在の世界の資本を牛耳る富裕層の人も、「所有」という概念を手放すことができたなら単なる人と人でしかありません。

つまり、「所有」という概念を手放すことができれば、必然的に「差」を取り除くことができるようになるのです。

しかも、少しでも多くの人が、物事の理を知って行動を変えることができるようになれば、人類の集合意識に変化が起こり「分離意識」やその原因となる「所有」の意識を手放せるようになります。

そのためにもまずは、主体を自分に取り戻す必要があります。

自分とは何かを深く知っていくことで、この世界の理を見出せば、主体を自分に戻すことができるようになっていきます。

我々は、今まさに主体を自分に取り戻すという旅に出たばかりといっていいでしょう。

この自分に主体を戻すという旅は、分離から統合に戻る旅でもあります。

この統合に戻る旅は、非常な困難な旅でもありますが目的地に近づけば近づくほど喜びが増していくことでしょう。

そうやって、少しづつ前に進みながら、この困難を乗り超えることができたとき、人という種が大きく発展できるようになるのです。

我々が、今、分離意識を経験しているのは、我々自身が種として発展するためです。

発展をするためには、身を深く屈めてジャンプする必要があるのです。

そういった視点で意味づけをするならば、我々が発展するために今のシステムが創られていると考えることもできます。

弥生以降のシステムは、我々が種として発展するために採用してきたシステムともいえるのです。

困難が大きければ大きいほど、それを克服できたとき喜びは大きなものになるでしょう。

そんな歓喜の瞬間を経験できるチャンスを我々は今得ています。

我々に、所有という概念が消えたとき、操作するものとされるものの差が消失することでしょう。

平和とは、和の心を持つことで平らになることなのです。

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