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97)「いまここ」とは、意図して観察し「氣づき」を得ること

「いまここ」とは何かを考えてみました。

何かをするときに、ひとつの意図を持ちます。

たとえば、上手に字を書きたいと思います。

この「上手に」という思いが意図になります。

次に、上手に書くにはどうしようかと思考します。

考えた結果、見本となる字をネットで探し出し、その字を真似て書いてみます。

見本となる字を参考にしながら字を書いて満足できれば、それで「上手に」という意図を達成することになります。

しかし、なかなかそう簡単にはかないものです。

そこで、書き上げた字と見本の字の違いを探します。

なぜ上手に書けなかったのか、その原因を見つけていきます。

字の偏(へん)と旁(つくり)の距離や大きさのなどを見比べたり、字の一偏一偏の線や「とめ」「はね」「はらい」などの様子をつぶさに観察していきます。

すると自分で書いた字と見本の字の間に違いがあるのが分かります。

この「違いがある」ということが「氣づき」であり、この「氣づき」は「観察」から生まれるものです。

こういった「観察・氣づき」という行為によって「上手に」という意図に近づいていけるようになります。

そこで、この「氣づき」をもとにあらためて字を書いて、何度か観察・修正繰り返していくうちに、満足できる字を書き上げることができるようになり、「上手に」という意図を満たすことができます。

この意図から完成までの流れを追っていくと次のようになっていきます。

意図→思考→行為→観察→氣づき→修正→完成

もちろん、一度だけの観察だけで完成できる場合は少ないので、完成に至る迄の工程は、より複雑になっていきます。

とはいえ、基本的な流れは「意図→思考→行為→観察→氣づき→修正→完成」にあるといっていいでしょう。

そして、この「意図から完成に至る迄の過程」を「いまここ」といってもいいかもしれません。

また、こういった「意図から完成」の流れが「思考の現実化」の行程といい換えることも可能です。

このため、「いまここ」に意識を置いて行動できるようになると「思考の現実化」のスピードが上がっていくと考えられます。

特に「思考の現実化」を果たすには、「意図」「観察」「氣づき」がとても重要なのではないかと思います。

なぜかというと、「意図」を持てば自然と思考するようになるものであり、「思考」によって結論を得ることができれば、簡単に行為に移ることができるからです。

また、よりよい結果を導き出そうとするには「観察」が欠かせないものであり、観察によって得らられた「氣づき」があると、修正点が明確になるため、ポイントを押さえて次の行為に移っていくことができます。

こういったことから、「意図」「観察」「氣づき」が特に重要なのだと思います。

そこで、一度行動したなら「意図」を持ってその内容を振り返り、「観察」し、修正に繋がるような「氣づき」を得る必要があるといっていいでしょう。

しかも、「氣づきの質」がよければ、完成までの距離を一気に縮めることができるようになるものであり、この「氣づきの質」を高めていくには「観察する力」がとても重要になってくるといえます。

実をいうと「観察」の中にも「意図→思考→行為→観察→氣づき」の流れがあります。

というのも「観察」を始めるときには「どうすれば」という「意図」があり、その意図によって「思考」が生まれるものだからです。

「意図」によって「観察」という行為を生み、「観察」の中から「氣づき」を見出していきます。

また「観察」という行為の中にもPDCAのサイクルがあるため、大きな意図の中に小さな意図が入っているという入れ子構造になっているといっていいでしょう。

いずれにせよ、何かを完成させるには「意図」→「観察」→「氣づき」が欠かせないものであり、観察した結果、よりよい「氣づき」を得られるようになると、完成までの距離を短くしていくことが可能となります。

そこで、たとえば人生そのものの質を向上させていこうと思うのであれば、日常のどんな些細なことでも「いまここ」で生きていけるようにしていけばいい、ということになります。

「いまここ」で過ごしていると、必ずそこに「氣づき」を得られるようになっていくため、その氣づきによって生活の質を向上させていけるようになっていきます。

たとえば、掃除をするときにただ何となくしていたりすると、小さな汚れを見失ってしまいます。

しかし、「綺麗にするぞ」といった意図を持って行動できるようになれば、観察力が上がっていくため「氣づき」を得やすくなり、細かな汚れを見落とすことなく綺麗に掃除ができるようになっていくものです。

普段、なんとなく習慣で行っている日常的な行為でも、意図を持ってすることができれば、自然と観察する力が上がっていくため、ささやかな行為の中でさえ「氣づき」を得られるようになっていきます。

そして、そういった小さな「氣づき」によって、生活に充実感を感じられるようになり、そういった充実感が自信や満足感に繋がっていきます。

こういったことから、普段の生活の中でも可能な限り「いまここ」の意識で生きていけるようになると生活の質が上がっていくのではないかと思います。

また、「いまここ」の習慣を身に付けることができると、「氣づき」を得やすい体質になるため、物事を具現化していく力を上げていくことになります。

小さな思考の現実化の積み重ねは、大きな挑戦にも役立つものであり「意図」「観察」「氣づき」を上手に使っていけば、比較的容易に現実化を図っていけるようになっていくことでしょう。

老子は「上善は水の如し」という言葉を残しています。

また、白居易は「水は方円の器に従う」という言葉を残しています。

両者の言葉に共通するのは、水の性質を観察し、観察を通じて得た「氣づき」を、人の生き方に例えているところです。

彼らは観察することで、この世界のあり方を見つけることができたのかもしれません。

「いまここ」に、目を見開いて何かを観察すれば、そこに必ず「氣づき」が生れます。

「いまここ」から得た「氣づき」は人生をよりよい方向へ導く力となります。

そこで、「いまここ」とは意図して観察し氣づきを得ることである、ということを念頭に置いて生きていくと、人生のサイクルが豊かになっていくのではないかと思います。

特に「意図」「観察」「氣づき」に注力して生きていると、好循環を生み出しやすくなるといってもいいでしょう。

といったわけで、ここでこういった文章を書いたということは、それを実践していかなければならないので、これからもより「いまここ」に注力し、「人生の豊かさのサイクル」の形成を加速させていきたいと思います。


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