負けるが価値!!
今日のタイトルの「負けるが価値」とは、負と思えることに価値があるということです。
我々は、勝ち負けを決めるために生きているわけではありません。
我々は、日々の生活の中から「喜び」を見出し「幸せ」を実感するために生きています。
勝ち負けの意識は、戦ったり争ったりすることで覚えるものです。
しかし、「喜び」を見出し「幸せ」を実感するには、勝負する意識は全く必要なかったりします。
むしろ、勝ち負けの意識を手放した方が「喜び」を見出し「幸せ」を実感することができるようになったりするものです。
とはいえ、我々の生活の中で喜びや幸せと勝ち負けが様々な形で結び付けられていたりするものであり、勝つことが美学とされている観念が今の世の中に多々存在しているといっていいでしょう。
では、なぜ我々は幸せと勝ち負けをリンクさせてしまっているかというと、この社会の仕組みが選抜制度になっているからです。
つまり、「選ばれる」=「勝つ」という構図が、この世界のいたるところに存在しているのです。
おそらく、こういったシステムは、人類が争いを始めた頃から存在し始めたのだと想像します。
争いが全く存在していなかったといわれる縄文時代には、いゆる争いの意識はなかったと思うし、当時の人たちのエゴはそこまで大きなものではなかったと考えることができます。
むしろ、人のエゴは争いの意識によって強化されそれが連綿と続いてきた結果、今に引き継がれてきたのではないかと思います。
しかし、これからは人が持っているエゴを弱体化させていかなければならなくなっていくことでしょう。
というのも、これ以上、我々がエゴを強化していったりすると人類そのものの存続が難しくなっていくからです。
これから先、人類のエゴがますます強化していってしまうと、現代の科学技術によって自らの首を絞めかねません。
現代の科学技術の発展の背後には、軍事技術が存在しているものであり、そういった技術の恩恵を受けながら我々は生活していたりします。
しかし、そういった技術に頼って生きているということは、ある意味で諸刃の剣なのです。
また、今の人間のエゴが現在の自然環境を破壊しているといってもよく、このまま自然環境を破壊し続ければ、それがそのまま我々の首を絞めていくことになっていきます。
我々が、勝ち負けの意識の中に喜びや幸せを見出し続ける限り、人類そのものの存続が危うくなっていくものなのです。
そういった意味でも、我々は、勝ち負けの意識をどんどん薄めていって、生きることそのものに「喜び」を見出し「幸せ」を見出して生きていけるようにならなければなりません。
では、我々の意識の中からどうやって勝ち負けの意識を薄めていけばいいのでしょうか。
どうすれば、勝ち負けの意識から脱却し、生きることそのものに「喜び」を見出し「幸せ」を見出していけるのでしょうか。
その答えの鍵となるのが、たくさんの負けを経験してきた人の存在だったりします。
たくさんの負けを経験したきた人が、勝負の中には喜びも幸せもないと気づき、戦わずに協力し合って生きていくことこそが喜びや幸せであると知ってて実践していくことで、この世界のエゴ性を薄めていくことができるようになると考えます。
そういった転換点が、もう目の前に来ているものであり、現在は、まさにそれをしていかなければならない状況にあると考えられます。
今の我々の課題は、「生きるとは何か、幸せとは何か」を改めて考えていかなければならないといっていいでしょう。
こういったことをしっかりと見据えなければ、我々自身の存続が危うくなってしまうのです。
そもそも、我々が「生きるとは何か、幸せとは何か」といったことを考えるようになるきっかけは「負の感情」を抱くことから始まったりするものです。
何をやっても上手くいかない、どういうわけか思うようにいかない、そういった「負」の思いを持つことで、人は「生きるとは何か、幸せとは何か」を考えるものになるようになり、そういった経験から人は、人生の本質とは何かを見出すようになるものです。
そして、「生きるとは何か、幸せとは何か」ということを探求していくことで、争いの世界では知ることの出来ない静寂に満ちた喜びと幸福を見出していけるようになるものです。
争いの世界は常に喧騒に満ちているものであり、そういった喧騒がますます人のエゴを掻き立てていきます。
しかし、喧噪のない静寂に満ちた世界には静かな喜びと幸せが存在しているものです。
そういった静寂の中に潜む喜びや幸福が人のエゴを徐々に落とし、勝敗の世界の喧騒から人を遠ざけていくことになります。
多くの人が喧騒の世界から離れ、静寂の世界に移行していくことができるようになったとき、選抜制度の社会から脱却して生きていけるようになっていくことでしょう。
互いが引き寄せ合うように自然な形で繋がりを築き、助け合って生きていけるようになっていくことでしょう。
「負」と思えるような体験が、人を大きく成長させます。
「負」と思えるような体験が、「生きるとは何か、幸せとは何か」を模索させ、人生を大きく転換させることになります。
「負」と思えるような体験は、「そういった生き方をしていたら自分という生命の存続が難しくなるよ」という合図なのです。
そこで、そういった合図に気づいて、それまでの生き方や考え方を大きく改めることができたとき、人は勝ち負けの世界から脱却できるようになり、喧噪のない静寂な世界に向かっていきます。
「負」と思えるような出来事の中から、自分らしい「価値」を見出せるようになったとき、人は生命の本質に気づけるようになっていきます。
価値をどのように意味付けるかはその人次第です。
世間的な価値と個人的な価値は異なるものであり、世間的な価値が必ずしも人を幸せにするものではありません。
しかし、自分の価値観が世間的なものと大きく異なっていたとしても、自分の価値観に沿って生きていった方が人を幸せにするものです。
例えば「そんなことをしていて何が楽しいの」と思われていたとしても、「それをしていると楽しくて仕方がない」ということがあると、人は喜びの中で生きていけたりするものです。
「そんなことをしていて何が楽しいの」という思は、対外的な世間の価値でしかありません。
しかし、「それをしていると楽しくて仕方がない」というのは個人が抱く価値です。
こういった個人が抱く価値の中にこそ、喜びや幸せが存在していたりするものです。
むしろ、そういった個人的な価値に従わず、世間的な価値に合わせて生きていたりする方が苦しくなったりするものです。
「負」と感じる体験を通じて自分なりの価値観を見出すことができるようになったとき、人は自らの人生を歩んでいけるようになるでしょう。
「負」と感じる体験には、たくさんの気づきが潜んでいるものであり、「負」と感じる体験が、自分自身を大きく飛躍させてくれます。
幸いなことに、勝負ごとに勝ち続ける人は存在しません。
つまり、誰もが飛躍のチャンスを持っているといえるのです。
「負」と思われる感情を抱いたとき、そこから何を見出すことができるか。
それが「負」の感情を持つ意味です。
「負」の感情は、学びや気づきを得るために存在しています。
「負」の感情を抱いたときこそ、自身を飛躍させるチャンスです。
「今感じているこの負の感情を乗り越えることができたとき、自分は飛躍することができる」、そう思って生きていけるようになったとき負の感情を味方にすることができるようになるでしょう。
人は負の感情を味方につけることができたとき、争うことなく生きていけるようになります。
そうやって我々の多くが負の感情さえも味方にしていくことができたとき、争いのない社会を生みだしていけるようになるでしょう。
対立するような思いを手放すことができたとき、我々の心の中に平和が生れます。
また、自分の平和を生きることが、巡り巡って世の中を平和に導いていくことになります。
自分を生きるということは、エゴで生きるということではありません。
自分を生きるということは、自分の平和の中から生まれた思いを役割に変えて生きるということです。
自分の中から生まれる平和な思いに気づき、それに価値を与えることで自分の役割を見出すことができるようになっていきます。
和を持って貴しとなす。
一人ひとりが、自分自身に最善を尽くすとき世界に静寂が訪れます。
負の感情には、そんな気づきが潜んでいます。
負の感情は、我々にとって偉大な教師なのです。
負の感情にどんな価値を与えるか、それが人を大きく飛躍させるのです。
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