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「納得感」を持って生きること

幸せを感じる状態のひとつとして、「納得感」を持って生きるということが上げられる。

「納得感」は「満足感」より少し手前に存在していて、例えていうなら、何かをしようとするときに抵抗のない状態といってもいいかもしれない。

ある対象と向き合うときに、すっとできる感じといってもいいだろう。

生活の多くをこういった納得感を持てるようになって行動できるようになれば、それは幸せな状態なのだと思う。

この納得感をもう少し違った言葉でいうなら、「しっくりくる感じ」といってもいいかもしれない。

何かをしていて、しっくりすることをしていると心に抵抗がないため幸せを感じることができる。

そこで、心に抵抗を感じないこと、しっくりくるという納得感をたくさん持って生きてようになると人は幸せに生きていけるようになるだろう。

とはいえ、僕の場合、納得感を持ってできることを見つけることは、そう簡単ではなかった。

僕は、これまで生きてきて納得感を持ってできることをずっと探しながら生きてきたし、最近、やっとそれを何とか見つけることができるようになったばかりだ。

正直に言ってしまえば、もう少し早く納得感を持って生きられるようになりたかったと思う。

僕は、大学を卒業する時点で、これをしたいというものが全くなかった。

だから就職活動をしていたときも、なぜその仕事をしたいのか、という明確な理由がないから、なかなか内定を貰うことができずに苦労したものだ。

また内定を貰って勤め出しても、その仕事を心からしたいと思ってはいなかったから、その仕事をしたいと思っていた同期と比べると、当然評価は劣ったものになった。

それでもその仕事もやっていて面白いと感じることができたら、結果も違ったかもしれないけれど残念ながらそうはいかなかった。

さらにさかのぼると、幼い頃からの記憶を遡ってみても「これをすると楽しくて仕方がない」ということが思い当たらない。

何をするにしても、どこかブレーキを掛けながらしていたし、いろんなことを消極的な理由で選択していたと思う。

そう考えると、人生の大半を「満足感」はもちろんのこと「納得できない」という思いを持って生きてきたといっていい。

今こうして自分自身に納得感を持って生きられるようになって思うのは、「納得できない」という思いを持って生きてきた頃は、自分の心の声をちゃんと聞くことができなかったということだ。

いや自分の声を聞くことはできていたけれど、実際に何をすれば自分が納得して出来るのかが全く分からなかったというのが正直なところだ。

実際、いろんなことを試したけれど、どうもしっくりする感じを得られる対象と出会うことはなかった。

なので結果的に長い時間を「納得できない」という状態のまま過ごしていたことになる。

昨日のつぶやきにも書いたけれど、人の初期設定は「喜び」にあると思う。

だから幼い頃から「喜び」の感情を丁寧に育てることができれば、大人になっても自分の心の声を聞いて生きていけるようになる。

素直に「喜び」を感じることを選択していけばいいという生き方ができるようになるだろう。

しかし「喜び」の感情を抑えながら育ってしまうと、自分の喜びの感情の見つけ方が分からなくなってしまって、心の声を上手に汲み取ることができなくなってしまう。

何かをしたいと思っても、すぐにそれを反対する声が生まれてしてしまい、結局、思い切った行動が取れなくなってしまう。

こういった状態が、心に抵抗がある状態といってもいいかもしれない。

そういった意味でも心の中にある抵抗感を取り除くことができないと、人は納得感を持って生きていけるようにならないといっていいだろう。

では、どうすれば心の抵抗を取り除いて、日々の生活を納得感を持って生きていけるようになるのか。

その方法のひとつとして、ちょっと荒療治だけど、すべてを自分の判断だけで生きるということをしてもいいかもしれない。

なぜかというと、すべての判断を自分でするということは、ひとつ一つ結果に対して自分なりの答えを見出さなければならないからだ。

上手くいってもいかなくても自分の考えで判断した以上、その結果を自分なりに納得しなければならない。

結果を他人のせいにすることができないから、上手くいかなかった場合でも自分で内省して納得するようにしなければならない。

もちろん、内省したからといって納得できない場合もあるけれど、自分で考えて決断して生きていると、自然と自分は何に納得して、何に納得できないかが分かるようになっていく。

すると何を優先すれば自分が喜ぶかが分かるようになって、自分に対する傾向と対策が立てられるようになってく。

そうやって自分の判断で決断できるようになると、次第に心の声を汲み取った行動が取れるようになる。

人は集団で生きるものだから、自分の声よりも周りの声を優先してしまうケースが圧倒的に多い。

しかも、現代の行動原理の多くはトップダウン型だから、自分の意思よりも上からの指示を聞かなければならないことが多くなる。

そうやって指示性の強い組織の中に長く存在していると、自分の声を聞けなくなってしまったりする。

なので自分の心の声を聞けるようにするには、そういった組織から一旦離れてすべてを自分で決断するようにするのも一つの方法なのだと思う。

僕はそうすることで、何とか自分を取り戻すことができた。

借金をすることもあったけど、幸い自分の判断で生きていける環境を生み出すことができたので、なんとか自分に納得感を持って生きられるようになったといっていい。

自由と責任はセットであるといわれるけど、本当にそうだと思う。

自分で責任を取れるからこそ自由なのだ。

責任を他人に押し付けている限り、自由にはなれない。

なぜかといえば、責任を他人に押し付ける心には自由がないからだ。

もちろん、責任を他人に押し付けたくなることは日々起こるものでもある。

しかし、そういった思いを持って過ごしていると不自由さが生まれるため、そんな不自由さを手放すために、色々と試行錯誤をしていくことになる。

では、試行錯誤の果てにどうすればそういった不自由さを手放せるようになるかというと、今に集中して生きることで過去の不自由な思いから離れればいいということになる。

ならば、どうすれば今に集中して生きられるようになるかというと、今を丁寧に扱うことで、目の前のことに納得感を持たせることができる。

そして、納得感をもってひとつ一つを行動するとき、そこに満足感が得られるようになり不自由さを手放すことができるようになっていく。

納得感から生み出した満足感が、不自由と感じた思いを忘れさせてくれる。

満足感は、人を前に進ませてくれる力がある。

過去の出来事を過去として扱えるようになる。

そうやって納得感から生まれた満足感を生活の中に増やしていくことができたとき幸せを感じて生きていけるようになっていく。

原因を幸せにすれば、結果も幸せになる。

原因を幸せにすれば、その過程で「やばいかも」と思うことがあっても意外と上手くいってしまうものでもある。

なので、やり方は色々あると思うけれど、今という瞬間に納得感を持って取り組むことができるようになったとき、人は自由に生きていけるようになるといっていい。

僕の場合は、今に納得感を持たせた方法は、自分の傾向と対策を心得て楽しいと感じることを優先させたことと、今という瞬間を出来るだけ丁寧にするということだった。

きっとやり方は人それぞれでなんだと思う。

ただ今この瞬間を納得して生きていけるようになれば、人は幸せになることができる。

心に抵抗があると感じることは選択しない。

あるいは抵抗を感じてもそれをしなければならないのであれば、それをする意味を明確にして行為そのものとひとつになればいい。

そうやって今としっくりと馴染むことができるようになったとき、そこに納得感を生み出すことができるようになっていく。

今という瞬間と和合することができたとき、人は幸せになることができるだろう。

過去でも未来でもなく今に生きることができたとき、人は思考の呪縛から解き放たれる。

今に納得して生きることができたとき、未来の不安は消え去り過去の出来事と和解することができるようになる。

所詮、過去も未来も思考の産物でしかないのだ。

ならば今に集中していけばいい。

今が原因であり結果なのだ。

人生という道をどうデザインするかは自分次第。

その選択は常に自分の側にある。

我々には選択の自由が与えられている。

自分の選択に責任を持てるようになったとき、人は自由に生きていける。

責任とは、今をどう生きるのかということでもある。

責任とは、今をないがしろにしないということである。

人が今という瞬間に納得感を持って生きるとき、責任を持って生きていけるようになるだろう。

今という瞬間をどのように向かい合うか責任を持って生きていけるようになったとき、人は自由に生きていけるようになってく。

自由に生きるとは、常に自分が納得できる状態を創り出して生きることなのだ。

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